表題のネイティック研究所は米国陸軍の衣食住に関する試験研究機関で、マサチューセッツ州のボストン郊外西方約30kmの、森と湖に囲まれた静かな環境の小さな町Naticに在り、我々の専門とする包装流通に関することも研究テーマの一つになっている。
私が日本人として同研究所の最初の訪問者となったのは昭和47年の夏、米国の諸々の技術がまだまだ日本にとってお手本の時代でした。
その頃、弊社と提携関係にあった米国のコンチネンタル・キャン杜(CCC)では次世代の容器とLて化学処理鋼板のTFSを電気溶接したコノウエルド缶と、アクリロニトリル樹脂の耐圧プラスチックボトルの開発を推進していた。我々もTFS板をナイロンで接着したトーヨーシーム缶を開発すると共に、アルミ箔ラミネートのレトルトパウチ(RP-F)の普及を進めていた。
RP-Fのマーケットが拡大するに連れて、ヒートシールの信頼性が問題となり、シール不良の検査方法の検討を迫られていた。そのような諸間題について、前記のCCC社で技術研修するとともに、シール検査方法についてはNaticで研究を推進中であり、その見学をしたいと思った。
さて、ネイティックの研究所では、野戦用の食品容器として缶詰に代わって衣服のポケットにも入るRP-Fに注目しており、Dr.Lampi等が我々と同様ヒートシールの不良検査装置を開発中であった。シール面の一方にホットエアを吹き付け、反対面の温度上昇で異物の噛み込みを検出しようと言うアイデアの、バーンズ杜の赤外線センサを用いたプロト機である。その詳細情報を得る目的で、我々のシールバー内に組み込んだ熱電対によるセンサのアイデアと情報交換しようとメールを書き、面談で討論しプロト機も見学したい旨を申し出たところ、快諾の返答を戴いた。
ところが、次の様なコメントが付けられていた。
「残念ながら、日米安全保障条約に基づき、日本国内の所轄省庁大臣の推薦を要す」
数年前のこと国会議事堂の前で「アンポ反対!」とやった、あの安保が実際に自分の目前に立ちはだかるとは考えても見なかった。
本論は、ここからネイティック研究所の門をくぐるまでの物語である。
先ず、Dr.Lampiからのメールを持って外務省を訪ねたところ、受付窓口で門前払いを喰わされた。ここは日本国内であり、米国から招待状が有ろうが無かろうが何の効力も無く、外務省が決めることだと言う。以下その時の遣り取りの一部である。
「目本人が米軍の施設へ入ることは日本国内の基地でさえ制限されているのに、米本国の研究所へ行きたいとは何事か!」
「貴方が国家公務員なら国の業務として出張命令も可能だが、民間人を送り出した前例が無いので、それは不可能である。」
「どうでも行きたいなら、貴方の仕事の所轄省庁大臣、食品その物なら農林水産大臣、食品衛生なら厚生大臣、機械装置なら通産大臣の推薦状を貰って来い。」
さて困った、大臣の推薦状って、どうやって貰えばいいんだ?
先ず、業界団体の推薦状を戴くことから始まると考え、缶詰協会に打診したところ、何とかなりそうな回答を戴いた。自分の勤める研究所の所長に推薦依頼状を書いて貰い、缶詰協会へお願いに上がり、そして缶詰協会会長の推薦状を携えて所轄省庁として農林省の農林経済局へ向かった。梅雨で濡れた石段を一歩一歩登るが如くに霞ヶ関界隈を巡って頭を下げ、やっとの事で農林大臣の推薦状を戴いて外務省に申請書を提出することが出来たが、そこに辿り着くまでに早や数ヶ月が過ぎていた。
申請書には大臣の推薦状の他に訪問日程は勿論、軍機密保持宣誓書や履歴書など、何通かの書類を日本語と英語の両方で書き、訪問予定日の1ケ月半前までに提出しなければならない。これでもしも却下の場合は通知するが、許可のときは何の知らせもしないと言う。いつ許可が出るかは不明だが、米国の日本大使館に駐在の自衛隊武官に電話で問い合わせれば分かると言うが、出発までには間に合わなかった。
CCC杜研究所での3週間、真夏のシカゴはメチャクチャ暑かった 滞在費を幾分でも倹約しようと、出発前に予約して行ったホテルは全部キャンセルして、シカゴ郊外のモーテルに変え、CCC社の誰かの通勤の車に交代で世話になった。ところが、大豆畑のド真ん中の安モーテルの空調機は壊れたままで、テレヒの天気予報は「今日も暑くなります、エアコンが必要でしょう」なんて言っている。それでまた暑くなった。
その後フィラデルフィアなど数箇所を訪問してからボストン入りし、日本大使館へ電話してネイティック研究所訪問の許可が出たことを聞いたが、久し振りで耳にする日本語は心地好く響いた。申請書を出してから既に1ケ月半、もう9月初め、幾分涼しさも感じられる頃になっていた。
さて、ネイティックへは長距離バスが有ると言う。ボストンのバスセンターを探し、ネイティックを通ると言う大型のバスに乗り込んだが、赤ン坊をネットに入れて背中にオンブし両手一杯に大荷物を抱えた裸足の女性と、他に数人の客が居るが、どれを見ても立派な恰好をした者はなく、スーツを着込んだのは私1人。何か不安でならない。
予め行き先を運転手に伝えておいたら、目的の場所で止まってくれた。
"U.S.ARMY NATIC LABOLATORIES"
いやあ、その大看板は眩しかった。やっと来たんだと感激。ゲートには仁王様みたいな大男の守衛が居り、ガンベルトを付けた腰に両手を置いて、「止まれ!、見たところ日本人の様だが、何の用だ?」と立ちはだかった。
Dr.Lampiの招待状を持っていることを告げると、電話で確認してから彼の研究室の在る建物を指さし示し、入門を許可したが撮影禁止なのでカメラを預かると言う。また不安になった。
約2時間、我々のシールバー自体をセンサにするアイデアの試験レポートと、彼等の論文や雑誌掲載記事の別刷などを交換、待望のヒートシール検査装置と対面した。写真は撮れないので既に用意してあった写真と、試験サンプルとしてシール面に木綿糸を噛み込みシールしたものを戴いた。話によれば、既に日本の容器メーカや測定機器メーカなど数社から問い合わせは来ているが、まだ実物を見に来た人は誰もなく「確かに貴方が最初の日本人だ」と言う。
帰りには例の仁王様が笑顔でカメラを返してくれた。日本製カメラの優秀さが世界中で話題となり、外国旅行の帰りにはそれを高値で売り払うと言う話があった頃なので、ちょっと心配したが大丈夫だった。ところが、その後がトンデモナイ事になった。
「帰り道のバス停が無いッ!」
ネイティック研究所前の道路は一方通行で、ボストンへ向う帰り道が無いのだ。例の仁王様に聞いても、バスが通っていることさえ知らないと言う。帰り道は森の向こう100m程の所に有り、ところどころ適当な間隔で梯子状に小道で繋がっていた。その途中に小さなコンビニストアの様な店が有ったので尋ねてみたが、やはりバスの事は知らないと言う。
サア困った、初めての米国1人旅。ここまでは殆どトラブルも軽く来たが、帰国間際になってこんなに途方に暮れるとは何たること。あと数時間でボストン空港からサンフランシスコ経由で帰国の出発時別であるし、こうなったら破れカブレ。度胸が座ると言うか、解決方法は只1つ、その手しか思い当たらなかった。ヒッチハイクである。
片手の親指を立ててボストン方向を指し示して掲げるが、誰も見向きもして呉れない。当然です。まだ暑いと言うのに紺色のスーツを着込んで、旅行カバンの大荷物を持った変な東洋人は、もしかしたら強盗かも知れない。いや、逆にこちらがトンデモない方向に連れて行かれるかも・・。いろんな事が脳裏を過った。
およそ1時間経過、ガタピシの日本車が止まってくれた。まだ20代かと思われる若者だったが、ボストンの電力会社に勤めるエンシニアで、これから夜勤で出勤の途中であった。彼は日本語を話した。車を止めてくれた理由を開いたら、日本の早稲田大学に留学したこがあるので、すぐに日本人と判ったと言う。
「地獄に仏」、名前を聞いたが、それより先を急けと車を飛ばした。どこかタクシーのある所まで送ってもらうことになり、途中の小さな村でタクシーの客持ち場所だと言う所で降ろしてもらい、運よくすぐにタクシーを拾うことが出来た。例の黄色いイエローキャブである。
何とか予定の飛行機にも間に合い、翌朝には予定どおりサンフランシスコ経由でハワイ島のヒロへ向かう直行便に乗って、ほっと胸を撫で降ろした。昨日のあの緊迫した状態が何か嘘のようである ヒロでは砂糖キビ畑を経営してる従兄弟が出迎えてくれた。彼はこれまで長年日本からの留学生の世話をしたが、身内が訪ねて来たのが初めてだと喜んでくれた。
こんな事が有ったのは、私がまだ30幾許もない若輩者であった大昔の話。まだ大した業績がある訳でもないのに、畏れ多くも農林大臣の推薦状を戴くなんて、今考えてもトンデモナイことに挑戦してしまったもんだ。もしも今だったらそんな勇気は出なかったかも知れない。
こうして、民間人が米本国の軍用施設に立ち入ったと言う「前例」が出来、見学申請の手続きも明らかになった。その後、この前例に乗って弊社からも数名がネイティック研究所を訪問し、他にも包装に関わる多くの方々も訪問できるようになったことは喜ばしい限りである。
私のネイティック研究所の訪問申請については、「出来るものならやって見ろ」と言って下さった、当時の弊研究所所長だった吉崎鴻造(現東洋鋼板会長)と、推薦状の作成については缶詰協会常務理事であった平野孝二郎氏、農林省農林経済局企業振興課長補佐であった森隆禧氏および外務省アメリカ局安全保障課におられた小島富夫氏には多大なお世話を戴きましたことに感謝致します。また、埼玉県の朝霞基地に有りました米陸軍科学技術センター極東連絡事務所の小宮一夫氏および Mr.Robert D.Jones
他多数の方々の御協力を得たことを記します。
以上
PS:
或る技術士の方が「同業者を引率してネーティクに行った来た」と言うので、「いつ頃ですか?」と尋ねたら、私が同研究所を訪問した5年後だった。
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