例会報告

90回「ノホホンの会」報告

2019625日(火)午後3時~午後5時(会場:三鷹SOHOパイロットオフィス会議室、参加者:山勘、致智望、恵比寿っさん、ジョンレノ・ホツマ、本屋学問)

今回は狸吉さんが眼の手術で欠席でしたが、すでに退院されご自宅で療養中とのことです。一日も早い回復を祈っています。というわけで、今回は投稿数も普段より少なく、ただその分熱心なディスカッションができました。厄介な隣国の問題、生命科学のある意味での危険さ、家庭教育の本質、真の歴史とは…、話題は尽きませんでした。次回も活発な投稿を期待しています。

(今月の書感)

「いのちとは何か」(致智望)/「若きエンジニアへのメッセージ」(本屋学問)/「文化大革命五十年」(恵比寿っさん)

(今月のネットエッセイ)

変わるべきは韓国だ」(山勘)/京都にある「はづかし」(羽束師)という地名の起源について(ジョンレノ・ホツマ)

(事務局)

 書 感

いのちとは何か/本庶 佑(岩波書店 本体1,900)

 著者の本庶 佑(たすく)が、2018年ノーベル賞を受賞した。本書は、2009年に初版が既に発行されていたが、著者のノーベル賞受賞後の2018年10月に2版として発行されたものである。

 従って、本書の内容は、ノーベル賞の受賞を意識して上梓したものでは無い。それ故か、その内容は専門的であり、私には難解な学者風文章である。

 先日、NHKの番組「NHKスペシャル」で、50分ずつ2回に渡り、人体遺伝子について、中山伸弥教授とタモリの出演で、大衆を対象とした番組に取り上げられた。その内容は本書が述べる「生命の思想、を問う時代」と重なる部分があり、本書が主張する「生きる」ということ自体が哲学・思想であると言うことの重さをより感じさせられた。

 ダーウィンの「進化論」が生命学の第一段階であり、第二段階がメンデルの遺伝子法則であった。「生き物の在り方」を統一的に考えたのが、後に生命科学の発展に向かう指標となると言い、それを期待したのが著者の理論の原点だと言う。

 その生命科学が生命の在り方を証した結果、人類社会に思いがけない影響を与えるようになり、社会の思想や倫理に大きな課題を投げかける結果になるであろうとの期待と危惧から、本書の上梓になったと著者は言う。

 生命科学の進化によって、生殖医療の発展、親子関係を新たなかたちで定義しなおすことが強制されるようになる、再生医療は人間を部分として切り出す結果、個の尊厳と命の有限性などについて再考を迫られることになる。脳科学の進歩は、意識とは何かと言う哲学の永遠の課題に、科学のメスをいれることにもなる。

 このような問題提起から、生命科学は将来に向け、何を目指すのか。生命科学の驚異的な発展の先に何があるのか。我々が考えねばならないことに付いて、十章に渡って、いくつかのテーマを取り上げ、考えねばならないことに付いて議論して行くのが本書の内容である。

その10章が、下記となる。

 

1. 幸福感の生物学

2. ゲノム帝国主義

3. 有限のゲノムの壁を超える仕組みⅠ

4. 有限のゲノムの壁を超える仕組みⅡ

5. ゲノムに刻まれる免疫系の記憶

6. 内なる無限─増え続ける生物

7. 生、老、病、死

8. がん、細胞と個体の悩ましき相克

9. 心の理解への長い道

10. 生命科学の未来

 以上の十章からなる切り口から、生命科学の技術的進化と革新によって、ゲノムの情報解読に至り、分子の機能を知るに至った。

 この結果を踏まえて、今後の生命科学はどう進むべきか、現時点で再度考えてみることが重要と言う言葉で著者は〆ている。

                  (致知望 2019年6月8日)

若きエンジニアへのメッセージ/内田盛也(にっかん書房 1989年8月 本体1,301円)

著者は1929年生まれ。陸軍予科士官学校に入るが、銀行家だった父親の助言で戦後は東京工業大学に進み、応用化学科を卒業して「帝人」に入社する。合成繊維の開発を目指していた同社に高分子専攻で入ったのは著者が最初だそうだが、特許部長、研究開発部長、生産技術研究所長、常務取締役などを歴任する。

 本書は、帝人のグローバル展開から規模縮小、新事業戦略まで同社の激動を経験し、制約の多い企業組織のなかで自らの思想と信念に基づいて技術一筋の道を歩んだ、いわば異色の企業内自由人ともいえる著者が、自らの技術者人生を振り返って新産業革命期の若い技術者たちに贈るエールである。

 帝人は、1891年にフランスで発明された世界初の「人造絹糸」(人絹)と深いかかわりがある。その翌年に日本に紹介された人絹を見た「鈴木商店」の金子直吉(後に総支配人)は、この分野に将来性があると考えて東京帝国大学出身の久村清太(後に帝人社長、会長)や秦逸三(後に同常務)に人絹の研究を委託する。

1913年、米沢高等工業応用化学科教授だった秦は、木材パルプなど天然繊維を加工した「ビスコース」を1本のノズルから硫酸凝固液中で押し出し、これをガラス製枠に巻き取る装置を考案した。記録によれば艶も強度もない老人の白髪のような代物だったが、これが日本最初の人絹で鈴木商店はこの研究に年間1,200円(現在の約600万円)を寄付し、さらに1915年に米沢に人造絹糸工場を設立、苦難の実用化研究の末に製品化の目途が付いた1918年、「帝国人造絹絲」として独立する。これが後の「帝人」である。

入社4年目の1957年、著者は欧米の技術調査を命じられ、初めての海外出張を経験する。ドイツでは、厳しい国土で常に自分の能力を高める努力をするドイツ人の技術者魂を知り、日本人の気持の甘さと恵まれた気候風土を実感する。スペインでは、建設中の教会に1000年単位で時代を考えるヨーロッパ人の精神構造と文化の奥深さを見、ヨーロッパ人が科学技術を人類に不可欠な価値ある仕事と認めて、確立された社会体制のなかで創造性を培うための情操教育の凄さを肌で感じた。

日本が欧米と同じ工業水準になるためには、1日の8時間を仕事、8時間を追い付くための準備、残り8時間の睡眠を削って前進するための研究をしなければならないが、それでも歴史ある社会体制に支えられて専門的に創作・開拓をし、さらに深く開発を続けるヨーロッパには勝てない。このことが、後になって中央研究所の必要性を強く主張し、基礎研究の初代室長になった動機だと著者はいう。そして、1960年代半ばになって、日本もやっと欧米と同じ水準の専門研究がスタートできたと述懐している。

技術課長の仕事は技術経営で、会社の全技術者の明日がかかっている。ちょうど結婚2年目、妻にはそう宣言して家庭を任せきりにしてしまったが、出張中に生後間もない次男を亡くしたことで父親失格と自分を責め、長く苦しんだ。そこから、組織人と父親を両立できて初めて一人前だとの思いに至り、その後の著者の生きかたは大きく変わる。自分が生まれ育ち、歩んだ道の経験から、最大の教育者は家庭と社会環境だと確信した。

 研究室長としてパイロットプラント開発のリーダーになり、200人近い研究者、作業員を陣頭指揮し、年間1億円の研究費と1億円の設備投資を任されるが、研究開発は無から有を生み出すための悪戦苦闘の連続で、連日の深夜仕事で疲れていたある夜、上司の部長と研究所長が部屋にやってきて、会社の将来や計画遂行についての障害、さらに会社が十分に支援できない現実を詫びた。このとき著者は、企業のトップが第一線に足を運び、戦いに挑む社員を労うことがいかに全軍の士気に影響するかを知った。とくに研究開発、新規事業には大切なことで、自分も上に立つようになって必ずそうしたと書いている。

 特許部長時代のエピソードも面白い。配属されて部に行くと入院中や病院通いの部員が多く、特許庁の出先機関のようで部全体の雰囲気が暗い。そこで、弁理士資格を持つ病欠中の社員には、個人の努力で資格を取ったのだから本来は弁理士会の規定額を払うべきだが、会社の給与で勘弁してほしいと謝り、同時に誇りを持たせた。また、全部員に弁理士試験の挑戦を勧めるなど意欲面でも精神的安定化策をはかり、特許部はみるみる明るくなったそうだ。これには、一時の自らの闘病経験も生かされている。

帝人といえばカリスマ経営者だった大屋晋三が有名だが、著者もその薫陶を受けた1人で、大屋から世界戦略の一翼を担う「ロービングアンバサダー」(移動大使)に任命され、世界中を駆け巡るなかで技術戦略を思考するようになり、マスコミから「ハイテク参謀」というニックネームも頂戴した。デュポン社始め世界の大企業と国際特許問題でタフな交渉をし、解決に導いた功績も大きい。

あるとき、大屋夫妻がニューヨーク空港に着くというので現地の社員はこぞって迎えたが、1人だけ自分は技術で仕事をしているという自負があり、それは不要なことだと考えて行かなかった人間がいた。彼はその後帝人の社長になったが、そうした毅然とした人間は1万人に1人、不世出の経済人だった土光敏夫氏のように誰が見ても尊敬できる人間は100万人に1人だと著者はいう。雇用しているのは上司ではなく会社である。それぞれの職分に応じて自信を持ち、天の声に従って仕事をする。そこに救いがあると著者は評価する。

1980年に大屋晋三という屋台骨を失った帝人は、その後グローバル企業から撤退して規模の縮小をはかるが、一方で新規事業は継続しなければならず、著者が苦労して推進した新規事業が形になり、多くの再配置が済んで会社に希望したことは、まず実際に奮戦した部隊長をしかるべき地位につけ、彼らを統率したいわば大将である著者を優遇するような人事はしないでほしいということだった。

どのような待遇をしても、一部にはどうしても不満は残る。そこで、著者の処遇に比べればまだましだと思える雰囲気を残しておけば、全員がまた新たな気持になれるというのである。会社は結局、著者の希望通りにしてくれ、帝人は初心を取り戻して再び雰囲気の良い優良企業に戻った。

著者は留学を断念したが、高い志と目標を持つ若い技術者の夢の実現には力を注いだ。海外留学はもちろん、学位も取れるときに取るようにと奨励した。著者の場合は、課長、係長、自分と3人分の研究論文を出すのが当時は当たり前だったが、それでも学位取得は社内では早かったという。さらに重視したのが人材の採用と育成で、帝人としては東京大学薬学部出身者を初めて3人入社させ、医薬事業を始めたときは主戦力になり、うち1人は大河内記念賞や日本化学会賞、発明協会賞などの栄誉に輝いたという。

 戦後の帝人で最初に学会発表をしたのも著者だが、その後アメリカで聞いた学会の誕生についての興味深い話を紹介している。独立直後のアメリカの科学技術はヨーロッパに比べてかなり遅れていたが、ヨーロッパはアメリカに科学知識を教えない。そこで、国家発展のために同じ思いを持つ科学者、技術者が自らの研究を発表し、討論した。その討論で結論を出すのではなく、各自が討論のなかで自分の研究の意義と方向を把握し、それがやがて学会に発展した。そして、これが学会本来のありかただと著者は考えている。

著者はまた、他人の悪口をいわないことを守ってきた。実は若気の至りで先輩幹部を批判したこともあったが、その評判を解消するのに20年以上かかった。悪口をいえば、それまでの正しい行動と努力が私的闘争と対立で片付けられ、それによって組織に潰される人も多い。一度悪評が立つと、一生かけても消せないからだ。

一流企業に勤め、高給を取り、高級なスーツを着て世界を飛び歩いても、それがすべて会社の都合や命令で自ら行動する自由がなければ、いわばビジネス社会の「奴隷」と同じだ。進歩するためには個人にも企業にも知恵が求められるが、時間と空間を拘束された企業内では決して良いアイデアは生まれない。

仕事は自分のためと考え、遊び心を持ち、勤務時間中も自分の意志で時間を調整し、仕事を離れて社外の研究会などに出て自分を磨き、積極的に異業種交流して情報を得る。これこそ現代社会における自由人であり、もちろん、そのためには他人の数倍の努力と能力が不可欠である。

「20代は自らを磨き、30代はリーダーとして、40代は組織に貢献し、50歳を過ぎたら社会へ自分の能力を還元することを忘れるな」。著者が父親から教えられた言葉通り、60歳を迎えて本書などの執筆、繊維学会、高分子学会活動、新しく「高分子同友会」、「日本工学アカデミー」の設立などに尽力した著者は、帝人ではもちろん、繊維業界でも初めて「日本学術会議」会員(第5部工学)に選ばれた。

                  (本屋学問 2019年6月19日)

文化大革命五十年/楊継縄 著・辻康吾 編 現代中国資料研究会 訳(岩波書店 本体2900円 2019年1月29日 第一刷発行)

  著者は1940年湖北省生まれ。精華大学卒。1968年新華社記者。1984年全国優秀新聞工作者に選出。

 2001年新華社退社後『中国改革』誌などの編集者。2003年『炎黄春秋』副社長。多くの著書があるが、次第に当局から警戒され始めた。『毛沢東大躍進秘録』(2012年 文芸春秋)で多数の賞を受賞し、炎黄春秋誌の離任を迫られた。2016年、本書の底本となった『天地翻覆-中国文化大革命史』を香港にて発表。

  編者は1934年東京生まれ。東京外語大学中国語科卒。1961年立教大学法学部卒。毎日新聞社入社。香港・北京特派員、編集委員を歴任。『転換期の中国』(岩波新書)など多数。

目次   日本の読者へ  序文

第1部   文革の起源から終焉まで(第1章から第13章)

第2部   ポスト文革の中国(第1章から第14章))

第3部   文革五十年の総括(第1章から第4章)

あとがき  革命年表 主要人名注など

 言葉には出来ないくらい悲惨な歴史は「ワイルド・スワン」で語られている。その事実を少しでも知りたいと、機会あるごとに現地の人たちに教えを乞うてきたが、硬いベールに隠されて真相に迫ることが出来なかった。親しい友人も口を閉ざしたままで今に至った。第1部・2部はあまりにも克明過ぎて途中で投げ出したくなった。

 第3部の文革発動の動機、毛路線のイデオロギー的背景(継続革命論)、文革の根本原因は建国後17年の社会制度、文革の代価・遺産と社会の要求、という各章を一望すると概ね真相らしきところに迫るような印象を受けた。

  毛は(大躍進政策の失敗による大飢饉)の失敗にもめげず、ユートピアを建設しようとしていた。彼の理想は五味一体の政経不可分の社会組織で、これによって集団化された大規模生産を目指していた。

 絶えず革命を継続することによってしか目標を実現する術はないと考えた彼は、中華人民共和国が成立した日が即ち社会主義革命に入った時であるということにあくまでも執着していた。

 イデオロギーに先導された熱狂的大衆運動の中で、人々は個性と理性を失った。指導者が呼びかければ、わが身の危険をも顧みずに突き進んで我先にと数々のでたらめをしでかした。この時代、無差別な虐殺さえ「悪を滅する務めを果たした」と認められてしまうという、おぞましい全体主義が横行したと言える。

 (本書は毛の個人的な道徳や操行については評価していない)著者は「文化大革命以前の制度が文化大革命を生み出す根本的な原因だ」と指摘している。それは中国の皇帝専制の土壌の上に構築されたソビエト式の権力構造が大きく働いていると指摘している。即ち、経済社会思想・生活などすべてが国家計画に組み込まれ、国家権力の支配が社会の隅々まで浸透していた、という。毛は官僚主義者階級制度を築いたが彼の気持ちとは違っていたようで、心底からの人民主義や無政府主義マルク、マルクス主義にも抵触していて、官僚たちの欲望のままに流されると懸念していた。権力と腐敗が人民と対立すると考えていた。

 官僚集団が勝者、毛は敗者。文革は毛、造反派、官僚集団が織りなしたトライアングルのゲームで、結末は官僚集団が勝者、敗者は毛沢東で、敗者のツケを払わされたのが造反派で粉々に砕かれた。

  文革の遺産は。①共産党と官僚に対する位美しいイメージは破壊され、尊敬はもはや存在しない。共産党批判は出来ないという神話を打破した②長期に亘って人々につぎ込まれてきたイデオロギーが破壊された。経済と政治の制度への信念が失われ、制度改革の要求と模索が生まれた③「階級闘争をカナメとする」から「経済建設を中心とする」ことが全社会の共通認識となった④大衆独裁(法もなければ天もない)という全体主義は穴だらけになり、改革解放の列車が傲然と進み始め、以後中国は近代化を加速する重要な時代になった。

  立憲民主制度の必要性。不幸なことに文革の勝者は官僚集団。彼らは経済改革だけをやり政治改革はやらなかった。文革を否定しながらも政治体制とイデオロギーを継承している。文革以前にも勝る特権と腐敗が横行。権力市場経済の根本問題は不公平で、これでは社会の調和は取れない。権力の濫用と資本の悪質と貪欲が結合して社会の一切の罪悪の巣窟となってしまった。立憲民主主義により、権力の抑制と資本を制御する制度を樹立することが社会の必然的要求である、と締めくくっている。

                         (恵比寿っさん 2019年6月20日)

 エッセイ 

変わるべきは韓国だ

  やはり韓国はやっかいな隣人だ。読売新聞(6・12)によると、同紙と韓国日報の共同世論調査では、日韓両国の8割超の国民が、日韓関係は「悪い」と答えた。対韓感情の悪化の背景には、同紙社説(612)が指摘するように、韓国による「歴史蒸し返し」への苛立ちがある。

 文政権は、元慰安婦支援財団の解散を一方的に決めた。韓国最高裁は、日本企業に元徴用工への賠償を命じた。韓国海軍による海上自衛隊機へのレーダー照射事件でも韓国は逆に日本の非を鳴らして事実関係を認めていない。日本通のはずの文喜相韓国国会議長は天皇陛下に元慰安婦への謝罪要求を突き付けた。文氏は、訪韓中の鳩山由紀夫元首相に前言を翻して謝罪した(読売614)というが、気軽な鳩山さんだからこのへんで気軽に謝っておこうと思ったのかもしれない。これは茶飲み話レベルであり、公式の謝罪ではないし本心とも思えない。

 共同調査では、慰安婦問題で日本がさらに謝罪すべきかどうかについて、日本では「必要はない」、韓国では「必要がある」、元徴用工の問題でも、日本政府の主張を、日本では「納得できる」、韓国では「納得できない」と、いずれも8割台で正反対の結果になっている。なぜこうまで日韓国民の意見が真っ二つに割れるのか、理解に苦しむところだ。

 文大統領は、去る3月の「三・一独立運動」100周年記念式典で、「朝鮮半島の平和のために日本との協力を強化する」と宣言して日本を驚かせた。今月6日には、「愛国を前にして保守も進歩(左派)もない。社会を二つに分断する時代は過ぎ去った」と、国会で演説した。

 共同調査で、自らの政治思想を「進歩(左派)」と答えたのは25%、「保守」は24%、「中道」は42%だ。左の文大統領も、強烈な日本批判の一方で左右の板挟みや日韓関係の損得勘定やらで、定見もなく腰が定まらない。結果として韓国のやること成すことが日本人を苛立たせる。

 先の読売社説は、90年代から一貫して70%を超えている日本不信の韓国世論について、『反日色の強い教育が背景にあろう。戦後日本の平和の歩みと国際貢献を軽視し、「軍事大国化」の危険を強調する韓国のマスコミにも大きな責任がある』としている。この解説にも韓国は反発するだろうが、日本人としては「たしかにそれもある」と肯定できる。

 日本から見ると韓国は、歴史を直視せず都合よく歪曲する。政権が替われば国家間の約束を反故にする。意に沿わない国際常識は無視する。こんな国が相手では、レーダー照射問題でも、あきれた日本側がサジを投げて無視したのは大人の対応だ。しかし韓国はこれを「うまくいった」と思いかねない。そんなレベルの国では、まともな外交も信頼の構築もむずかしい。

 共同調査で、『明るい材料は、29歳以下の若年層で、相手国に「親しみを感じる」が、日韓ともに4割台に達したことだ』というが、そのあたりにかすかな期待をつなぐしかないのか。いずれにしても変わるべきは韓国側だろう。

                                (山勘 2019621日)

ホツマエッセイ 京都にある「はづかし」(羽束師)という地名の起源について

  現地の方でもこの地名の語源について、ご存じない方がほとんどで、ホツマツタヱの記述の中からお伝えする機会がありましたので、控えから抜粋したものをホツマエッセイにさせていただきました。

  「乙訓」(おとくに・おちくに)郡と、「羽束師」(はづかし)の地名の起源を「ホツマツタヱ」から読み解く

 

1. 垂仁天皇は「タニハミチウシ」の娘をお妃に迎い入れます。

 

そゐとしの きさらぎもちに(36-3~5)

めすたには みちのうしのめ

ひはすひめ ぬはたにいりめ

まとのひめ あさみにいりめ

たけのひめ はづきはつひに

ひはすひめ きさきにたてゝ

いとみたり すけとうちめに

たけのひめ ひとりかえせば

はづかしく こしよりまかる

おちくにぞ

 

 ホツマツタヱは5・7調のうたで綴られていますが、行間から多くのことが読み取れます。

 垂仁天皇(イクメイリヒコ・イソサチ)は、たまき宮十五年二月十五日に、お妃(三番目のお妃になります)を召されました。

「タニハミチウシ」の娘で、長女「ヒハス姫」、4次女「ヌハタニイリ姫」、三女「マトノ姫」、四女「アサミニイリ姫」五女「タケノ姫」の五人姉妹になります。

  約、半年後の八月一日(はづきはつひ)に、長女の「ヒハス姫」を妃(中宮)に迎い入れ、妹の三人を、「すけ妃」と「うちめ」に迎い入れました。

 しかし、五人目の「タケノ姫」だけは、宮中に入れず、一人だけ国に帰えされることになりました。「タケノ姫」一人が天皇に気に入られなかったのは、容姿が醜かったのか、5人姉妹の末娘で妃には未熟であったのかも知れません。

 一人だけ、御輿に乗って国に帰ることになりました。しかし、恥ずかしさで胸が一杯になり、今更一人だけ国へ帰ることも出来ないと、御輿から身を投げて自殺してしまいました。

 その地を、「オチクニ」と言うようになり、後に漢字が渡来し、乙訓という漢字が宛がわれたようです。現在では、乙訓(おとくに)郡と呼ばれています。

  また、「タケノ姫」の恥ずかしい思いで、身を投げうった地名を「はづかし」と名付けられられました。後世になり漢字が導入され、日本の地名を漢字化するときに、音声から羽束師という漢字を当てはめたものと思われます。

 この地に、羽束師と名前の付いた、小学校や川や橋などに現在も生きています。

この漢字の地名は、漢字に書き換える時点で、数百年以上経っていたため、既に「恥ずかしい」という意味合いは風化していたかも知れません。

  たとえば、東北地方の日高見ですが、そこを流れる川は北上川と呼ばれています。

漢字化されたとき、この地方は日高見であったにも関わらず、川の名前を漢字に書き換えるとき、「ひたかみ」を「きたかみ」に聞き違えたからと考えられるからです。

 六甲山も武庫川も本来は、「ムカフ山・川」であったと推測されますが、山と川で別々の漢字が当てはめられたと考えられます。

 安芸の国の「安芸」という漢字についてですが、元々の意味は木こりが山の木を丸裸にするまで伐採してしまい、仕事がなくなって飽き飽きしているというのが別の綾(章)にあります。

漢字化されたとき、本来の意味が分からず現地の人の音声に漢字を当てはめたと考えれます。

  なお、丹後に竹野郡という地名は「タケノ姫」に関連しているかも知れません。

 

2. 垂仁天皇の最初のお妃は「サホ姫」と言います。

 ふとしきさらぎ(35-4~5)さほひめを うちみやにたつ にいみやこ うつすまきむき たまきみや しはすうむみこ ほんつわけ あえものいわず

 イクメイリヒコ」(垂仁天皇)は)四十二歳で皇位を継承して即位された翌年の二月、「サホ姫」を中宮(うちみや)にたてました(迎い入れました)。新しい都を纒向(まきむき)の地に移し(遷都)「たまき宮」と名付けました。

十二月に「サホ姫」が生んだ皇子は「ホンヅワケ」ですが、唖でした。

 最初のお妃であった「サホ姫」は、皇子を残して焼け死んでしまいます。

 天下を執ろうとたくらんでいた「サホ姫」の兄「サホヒコ」から、天皇暗殺を強いられます。その機会を狙うことになりましたが、気付かれて未遂に終わります。天皇に全てを白状し許しを得ます。

 直ちに、「サホヒコ」を討ち取るよう詔を発し兵を差し向けました。状況の変化を知った「サホヒコ」は降参せず、稲城という稲束を積んだ城に逃げ隠れますが、火攻めに遭い焼け死にます。

一旦許された姫ですが、兄と同じ罪だと悟り、子供「ホンズワケ」を一旦外に出して再度火中に入り焼死します。

その時、「サホ姫」は、私の後見には「タニハミチウシ」の娘を妃に召されるようお願いしますと言い残します。

 「サホ姫」の出目の記載がないため、大陸系の方ではなかったかと推測します。同じ頃、新羅の皇子「アメヒボコ」が来朝しています。大陸との交流が盛んであったと考えられます。

 

3. 二番目のお妃「カバイツキ姫」は、難産の末「ヤマト姫ヨシコ」を生むが、産後半年で亡くなります。

 なほふづき はひこもづみの(35-30~31)このつゞき たるねがかばゐ

つきひめを たつきさきとの かくやひめ なるうちめゐか ことほぎし

たまき宮(垂仁天皇)七年一日、「コモヅミ」の子の「ツヅキタルネ」の娘「カバイツキ姫」を正妃に立て、「カクヤ姫」を内女に立て、五日間の婚礼の祝いをしました。

 たまきみや こほなつきそむ(36-1~3) きさきゆめ やまとおゝくに

かみのして たまへばはらみ つきみちて うまずにやめて

みとせのち なつきそむかに うむみこの なはやまとひめ

あとやみて かなづきふかに はゝまかる

  たまき宮(垂仁天皇)九年九月(なつき:ここなづきの略)十六日に、お妃(カバイツキ姫)が夢で「ヤマトオオクニ神」(コトシロヌシ)から、神の垂(しで)を賜わりました。すると、孕みました(懐妊)が、月が満ちても生まず、三年経った九月十六日にやっと生まれました。その子の名前は「ヤマト姫」と名付けました。しかし、母(カバイツキ姫)は、産後病になってしまい、十月二日にお亡くなりになりました。

  このとき、「カバイツキ姫」が正妃になったとき、もう一人、「カクヤ姫」が内妃になっています。しかし子供は授からなかったようです。

この「カバイツキ姫」の生んだ「ヤマト姫ヨシコ」は、後に2代目「天照大神の御杖代・ひのみこ」になります。魏志倭人伝でいう卑弥呼に当たると推定しています。

 

4. 三番目のお妃として「タニハミチウシ」の娘を迎えます

  「タニハミチウシ」の娘・姉妹が三番目のお妃になったのは、「サホ姫」が死ぬ間際に自分の後見に「タニハミチウシ」の娘をお願いしますと言い残したことによります。

 初代と二代目のお妃が若くして亡くなってしまい、日嗣(世継ぎ)の皇子の誕生が待ち望まれていたからです。

  「タニハミチユシ」の先祖は「タカミムスビ」にあたり、後世の藤原鎌足に続きます。

京都府京都市伏見区羽束師志水町にある、羽束師坐高御産日神社 ハヅカシニマスタカミムスヒノ神社という長い神社名にも、タケノ姫との流れが感じられます。タケノ姫にもタカミムスビの血が流れているからです。 何代目のタカミムスビかは不明ですが、イザナミ、天照大神につながっています。

「イマス」の子の「タニハミチウシ」は、食事係(神饌:みけのもり)になりました。(36-18)という記述もあり、この「イマス」の孫の「タンヤガ」の娘を「フタジリ姫」と言い、後の「ヤマトタケ」(40-33)のお妃になっていることが分かります。

 

5. 「タニハミチウシ」の長女「ヒハス姫」は、5人の子供を宿します。

  そやとしさつき(36-5~7)そかきさき うむみこにしき いりひこの いむなゐそきね

 ふそまふゆ うむみこやまと おしろわけ いむなたりひこ つぎにうむ 

 おゝなかひめと わかぎにの いむなはるひこ

  たまき宮十八年五月十日に妃「ヒハス姫」が生んだ皇子は

 「ニシキイリヒコ」で真名が「イソキネ」です。

 たまき宮二十年の真冬に生んだ皇子は「ヤマトオシロワケ」で

 真名が「タリヒコ」(後の十二代景行天皇になる)です。

 次に生まれたのが、「オオナカ姫」と

 「ワカギニ」で真名が「ハルヒコ」です。

 

6. 「ヒハス姫」の生んだ長男「ニシキイリヒコ」と次男「ヤマトオシロワケ

 長男「ニシキイリヒコ」(イソギネ)の功績

 みそゐほの なづきゐそぎね(37-30~35)たかいしと ちぬのいけほる

 めづきほる さきとあとみと もろくにゝ やおのいけみぞ

 つくらしむ なりわひふえて たみとめる

  たまき宮三十五年の九月に、「イソギネ」(「ニシキイリヒコ」は、河内の高石と茅沼のため池を掘りました。

 十月には、「さきいけ:挟城池」と「あとみいけ:迹見池」(先池・後池)を掘りました。あちこちの県(あがた:国)に、八百ものため池を作らせました。お陰で、稲の収穫が増えて、民の生活が豊かになりました。

  みそこほめづき(37-32~35)ゐそぎねは うちみてつくる

 ちつるぎを あかはだかとも なをつけて おしさかにおく

 このときに ①しとりべ②たてべ ③おほあなし ④ゆみ⑤や⑥はつかし

 ⑦たまべかみ ⑧あまのおさかべ ⑨ちのへきべ ⑩たちはかせべの

 としなへを あはせたまわる にしきみこ ちつるぎうつす

 いそのかみ かみがかすがの いちかわに つげをさめしむ 

 にしきみこ つかさとなせる

  たまき宮三十九年十月に「イソギネ」は、宇治の川上(「うちみ」の「み」は、かみの宮の「み」)で、千本(ち)の剣を作りました。この千本の剣を作った所を日置部といい、日置神社は滋賀県高島郡にあります。

 この剣のことを「あかはだとも」(「あ」は天地の天、「か」は光、善悪の善を表す、「はだか」は、「かまはだとべ」のように天にも届く絶世の美人から、「とも」は剣を携えることから)という名前をつけて、「おしさか」(榛原、昔、神武天皇が苦戦した場所)にこの剣を奉納しました。

 このとき、

① 「しとりべ」(「しとり」は古代布、麻木綿の古代の織物を言い、「べ」は専門職の位を言う)

② 「たてべ」(楯をつくる専門職、木を縫い合わせて楯を作った)

③ 「おおあなし」(すもう神社、つわもの主、後の兵頭神社)専門職

④ 「ゆみ」(弓つくり部、「ゆげ」と呼んでいた、弓を作る専門職)

⑤ 「や」(矢を作る専門職)

⑥ 「はづかし」(「たけの姫」(「たにはちみちうし」の五人娘の一人だけ宮中に上がれず帰されたことを恥ずかしく思い投身自殺した)を神祀りした)

⑦ 「たまべ」(たまを作る専門職)

⑧ 「あまのおさかべ」(天に逆らうもの、刑法を取り扱う専門職)

⑨ 「へきべ」(千本の剣を置いて守る部門、「へく:置く」日置神社:剣大明神

⑩ 「たちはかせべ」(太刀を佩(は)かせる専門職)

 

 以上の十部をあわせて、「にしきみこ」が、これらの専門職集団(べ、部)の頂点を司りました。

  「にしきみこ」が、この千本の剣を「おしざか」から「いそのかみ」に移しました。

 天の告示があって、「にしみこ」から、春日の「いちかわ」に移しました。春日がこの千本の剣を守る直接の担当になりました。「にしきみこ」は出世して、司になりました。

  次男「ヤマトオシロワケ」(タリヒコ)は後の景行天皇・世継ぎ皇子に

  みそなほはつひ(37-32)おみえたつ たりひこはそや よつぎみこ

  たまき宮三十七年元旦に「たりひこ」は皇太子になられました。「たりひこ」は十八歳で、世継ぎ皇子になりました。「たりひこ」は後の景行天皇になります。

                            (ジョンレノ・ホツマ 2019年6月22日)