例会報告
第85回「ノホホンの会」報告
 

2019年1月17日(木)午後3時~午後5時(会場:三鷹SOHOパイロットオフィス会議室、参加者:狸吉、致智望、山勘、恵比寿っさん、ジョンレノ・ホツマ、本屋学問)

 2019年最初の、そして平成最後の年初例会でしたが、全員元気に参加でまことにめでたいことです。今回もAI(人工知能)の未来、腸の老化防止、世界を変えた新素材、日本人の気概を示した歴史…と、話題は尽きません。インターネット上で軽薄な論理
や議論ばかりがまかり通る今日、本会の存在と意義を知らしめるためにも、「ババン時評」始め積極的なアプローチが必要かもしれません。


(今月の書感)

 「『腸の老化』を止める食事術」(致智望)/「敵兵を救助せよ! 英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長」(本屋学問)/「自衛隊の闇組織 秘密情報部隊「別班」の正体」(恵比寿っさん)/「世界史を変えた新素材」(恵比寿っさん)/「日本を愛した人類学者…エンブリー夫妻の日米戦争」(狸吉)/「AIが人類を支配する日」(山勘)


(今月のネットエッセイ)

 「ホツマエッセイ・魏志倭人伝の中の卑弥呼をホツマツタヱから読み解く」(ジョンレノ・ホツマ)/「『だます統計』にだまされるな」(山勘)/「コスパ良く感動したい」(山勘)

  (事務局)

 書 感
「腸の老化」を止める食事術/松尾恒夫(青春新書 2018年6月)本体920円

 著者の松尾恒夫は、東京慈恵医大卒業後同大学病院内科助手を務めた後、2004年から東京都立川市に大腸肛門専門医として松尾クリニックを開業し、4万件以上の大腸内視鏡検査を行っており、この分野で第一人者と言われ、PHP研究所などから「腸に悪い習慣」など、腸に関する書を数冊上梓している。

 始めに、よくある腸の症例から述べている。70代の女性の例として、便秘に対して長期間下剤を服用してきた結果、結腸全体にメラノーシスが確認された。治療には、下剤を即刻止めるべきことであったが、そう云う訳にも行かず、患者にとって大変困難な処方が強いられたと言う。先ず、下剤のアントラキノン系を減らし、エキストラ・バージン・オリーブオイルの接種を行うようにして、半年かけて下剤の服用を半分迄減らしたと言う。

 80代の男性で、腰痛が悪化したことから便秘となり、毎日排便を心配して下剤を服用する様になったと言う症例について、お腹のマッサージと具沢山のスープにエキストラ・バージン・オリーブオイルを入れたものを摂取してもらい、下剤としてルビプロストンを服用してもらって改善が見られたと言う。本書は、この良くあるケースから本題に入るのである。

腸の老化で引き起こされる便秘に付いて、本書は色々なケースを以て説明している、大腸内容物1g当たり、一千億から数千億と言われる腸内細菌も加齢と共に変化が生じ、数百種類になってしまい、腸の機能が「子供返り」すると言います。それは、幼児には腸内菌が存在せず年と共に菌の種類が増えて来て腸内菌はこの様な数になると言います。

腸の老化は正しくその逆の現象と腸の老化の代表的自覚症状として、便が細くなる、便が硬くなる、排便時間が長くなる、うまく排便できない、残便感が生じる、便意が無い、腹痛・腹部膨満感が生じるようになる。著者は、あなたの腸の老化度チェックというのを上げて、自分の腸の状態を知っておくと良いと言う。

1. 下剤を服用しないと3~4日に1回しか排便出来ない。
2. 便がたえず固い
3. 排便が出来ないでいると、お腹が張ってしまう。
4. 日頃、体を動かしたり、歩いたりすることがあまりない。
5. 1日1~2食である。
6. 便意が起こっても我慢することがある。
7. 下剤を使うようになってから、1年以内である。
8. 自然な便意が起こらない。
9. 下剤を使わないとまったく排便が無い。
10. 下剤を使って排便するのは週に1回程度。
11. 下剤を使うようになって1年以上5年未満。
12. お腹のガスが以前に比較し臭いと感じる。
13. 下剤を毎日使っている。
14. 下剤を飲む量が、常用量より多い(連日で無くとも)。
15. 下剤を飲む量が常用量の2倍以上多い。
16. ピーク時に比べて体重が10Kg以上減少している。
17. 下剤を5年以上使い続けている。

 この内、1~6のいずれか(あるいはいくつか)に当てはまる人 軽症
7~10に当てはまる人                        中程度の症状
11~14の人                              重症
15~17の人                              下剤依存症

 以上のリストで自分の腸の状態をチェクし、早目の改善策を講じ下剤依存症にならない様に、高齢になればなるほど腸の機能低下がすすむので対策をとるようにと言う。

 本書の後半は、この対策として具体的な食生活が記されていて、本書の半分程度のページを使っている。印象にのこる記述として、例えば、ヨーグルトは言われているほどの効果は無いと言うこと。そして腸に良いたべものとして、納豆にエキストラ・バージン・オイルを混ぜる、腸の免疫力アップに欠かせないアミノ酸の一種であるグルタミン、植物繊維の豊富なキウイ、熟してない若い目のバナナなどにエキストラ・バージン・オイルを掛ける、などまだ具体的に述べられ、食材の料理方迄も記されている。更に、快便に欠かせないストレッチ、ストレスを貯めない生活習慣の改善に至るまで記されていて、ハウツー書としても利用価値のある書として感じた。

(致智望 2018年12月30日

敵兵を救助せよ! 英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長/恵隆之介(草思社 2006年7月)本体1,700円

 太平洋戦争中の1942年3月、インドネシアのスラバヤ沖海戦で日本海軍の艦艇が取った行動が本書のタイトルになっている。著者は防衛大学校から海上自衛隊護衛艦隊に勤務、退官後は銀行などを経て、ビジネススクール校長を務めている。

 当時、ジャワ海には日本海軍の巡洋艦4隻、駆逐艦14隻、アメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリアの巡洋艦5隻、アメリカの駆逐艦4隻、イギリス、オランダの駆逐艦5隻が展開していた。4日間に及ぶ激しい戦闘の末、連合軍艦隊はほとんどの艦艇が撃沈、自沈したが、その後に信じられない光景が出現した。まだアメリカの潜水艦が行動中のジャワ海を漂流していた連合軍将兵に対して、日本艦隊が救助活動を始めたのである。もちろん、戦時下でも海上遭難者を不当に扱うことは戦争犯罪であるが、いつ攻撃を受けるかわからない極限の状態では放置しても違法ではない。

 海戦を指揮した第三艦隊司令長官高橋伊望中将はイギリス駐在の経験があり、フェアプレイ精神を尊ぶ日本海軍の伝統に則り、全艦に直ちに救助を命じた。日露戦争時にロシア海軍将兵627名を救助した前例が頭をよぎったかもしれない。各艦長の判断によって救助能力の差はあったが、記録によれば「羽黒」20名、「江風(かわかぜ)」37名、「山風」67名などで、とくに本書に登場する駆逐艦「雷(いかづち)」艦長工藤俊作少佐(後に中佐)は、マストに「救難活動中」の国際信号旗を掲げさせ、漂流していたイギリス艦「エクゼター」「エンカウンター」の艦長を含む422名を救助した。

 当時「雷」の乗員は約200名、海面を漂う2倍以上の人員を救出する作業は肉体的にも心理的にも困難をきわめただろうが、負傷者の手当てはもちろん、油で汚れた体を布とアルコールで拭き、シャツと半ズボン、運動靴、水と乾パンを支給し、熱いミルクやビールまで提供したそうである。

 本書は、同様に駆逐艦「電(いなづま)」(艦長竹内一少佐)が「エクゼター」の376人を救助したことにも触れている。アメリカの駆逐艦「ポープ」の乗員は最初「雷」への乗船を拒否し、救命ボートのまま曳航を要求するが高速だと転覆の恐れがあり、最終的には「電」に151名が救助された。両艦とも高橋中将の直属で単艦行動だったため、艦長の決断と個性が遺憾なく発揮された好例だという。当時の乗員の1人が手記に「?沈みゆく敵艦に敬礼”という艦内放送があり、全員が敬礼で見送ったシーンが海軍時代最高の思い出であり、日本海軍に武士道を見た」と残していることも紹介している

 工藤俊作は1901年山形県生まれ。米沢興譲館中学から海軍兵学校(第51期)に進み、在校中は後に首相になる鈴木貫太郎校長の薫陶を受けてリベラルな軍人教育と自由な校風を謳歌し、1940年に「雷」艦長になった。身長185cm、酒豪で柔道三段、その性格は?豪放磊落”がピッタリだったという。兵学校時代に身に着けた個人の尊重、私的制裁の禁止といった良き海軍精神や工藤の民主的リーダシップが「雷」の乗員に浸透していたことが、この崇高な行為と無関係ではないだろう。

 工藤艦長は英語で、「諸官は勇敢に戦った。今は日本帝国海軍の名誉ある客人である。今回、貴国政府が日本に参戦したことは愚かだが、私はイギリス海軍を尊敬している」と述べたと本書にあるが、それを聞いていた連合軍将兵のなかに生涯忘れ得ない感銘を受けた軍人がいた。

 2003年10月、1人のイギリス人が来日する。「雷」に救助された元イギリス海軍中尉で戦後はスウェーデン大使も務めたサミュエル・フォール卿その人である。卿はイギリス軍元捕虜の間で反日感情が強かった頃から毅然として工藤艦長と救助作戦を公表し、日本海軍の名誉回復に努めてきた。1986年にはアメリカ海軍機関誌がこの救出劇を特集、1992年のスラバヤ沖海戦50周年記念式典では卿が工藤中佐の功績を称え、1998年には先の工藤艦長のスピーチを自ら「タイムズ」紙に投稿している。

 実は1979年8月、遠洋航海でイギリスに寄港した当時の海上自衛隊練習艦隊司令官に対してイギリス海軍から工藤中佐の消息依頼が正式に出されていたが、そのときはなぜか積極的に調査されなかった。しかし、長年工藤艦長の大恩を忘れずにいたフォール卿は、1979年1月に工藤が亡くなっていたことを知った後も、できるなら工藤艦長の墓参と遺族に感謝の意を表したいと、積年の思いを遂げるべく「人生の締めくくり」として高齢と心臓疾患をおして来日したのである。

 フォール卿の事情を知った外務省と海上自衛隊幕僚監部は、最大の礼を尽くして観艦式に卿を招いた。しかも海上自衛隊第一護衛群所属の新鋭護衛艦4代目「いかづち」にである。特別ゲストで呼ばれていた著者はこのときフォール卿に会い、その経緯を知る。卿はそこでも工藤艦長のことを熱く語り、艦長の墓と遺族を捜し出してほしいと依頼して帰国した。

 「日本の武士道とは、勝者は驕ることなく敗者を労わり、その健闘を称えることだ」と語ったフォール卿の言葉に胸を打たれた著者は、工藤の消息を確かめるためまず海軍兵学校関係者や日本海軍の記録などに当たるが辿り着かない。そこで、旧厚生省史料から「雷」関連生存者を調べて片端から電話し、ようやく士官2名、下士官4名を捜し出す。

 彼らのネットワークから、工藤中佐夫妻には子がなく山形に甥がいることを知るが、彼は「叔父は生前軍務のことはまったく話さなかった」と驚きを隠さず、救助当時の「雷」先任将校の娘と機関長夫人はともに「そんな立派なことをしていたんですか。本人は一切話さなかった」と感動した。著者はこのことに大きな感銘を受け、国家のために忠実に職務を果たし、己を語らず静かに世を去った先人たちの功績を後世に伝え残すことが後に続く者の責務だと書いている。

 著者によれば、工藤は中佐昇進後陸上勤務になり、戦後は郷里の山形で隠遁生活を送っていたが、1955年妻の親戚を頼って埼玉県川口市に移り、医院事務の傍らかつての部下らと旧交を温めながらひっそりと暮らしていた。公的会合や兵学校のクラス会などには一切出ず、ジャワ海の出来事も決して語ることはなかったという。1977年に病を得て1979年1月に78歳で亡くなると、同市薬林寺に葬られた。

 著者はこうして約3か月で工藤俊作中佐のその後を突き止め、そのことをフォール卿に伝えると大変喜んで、再来日はできなかったが著者が代わりにイギリスに赴き、当時の防衛庁の好意で現地駐在武官とともに公式にフォール卿に報告した。もし1979年時点で捜し出すことができていれば、フォール卿は来日のときに恩人の墓参ができ、もしさらにその1年前に著者がその事実を知っていれば、ひょっとしたら工藤中佐とフォール中尉の劇的な再会が実現していたのではないか。著者は、万感の思いで叶わなかった?if”を記している。

 1995年の阪神・淡路大震災のとき、多くの住民が猛火に包まれて倒壊した家屋の下敷きになったが、当時の陸上自衛隊中部方面総監は自衛隊法を墨守して部隊行動を起こさず、その結果多くの犠牲者を出した。最高指揮官の村山富市首相も現地の惨状を把握せず、財界関係者と朝食を取っていて初動が遅れたと著者は書いているが、今日とは比較にならないほど硬直した戦時の国家システムのなかで、人道的見地から自分の強い信念で行動したのは、多くのユダヤ人を虐殺から救った?命のビザ”で知られる外交官杉原千畝だけではなかったのである。

 本書も最後で触れているが、アメリカのルーズベルト大統領の訃報を知った鈴木貫太郎首相は、世界に向けてのラジオ放送で哀悼の意を表わすとともに継戦の意志を示した。それに対してドイツのヒトラーは、ルーズベルトを口汚く罵った。亡命先のアメリカでそれを聞いたドイツの作家トーマス・マンは、「日本には騎士道精神と人間の死に対する深い敬意と品位が存在する。鈴木の高貴な精神に比べて、ドイツ人は何と恥ずかしい国民か」と嘆いたという。

 著者は「あとがき」で、本書を工藤中佐の墓前に捧げようと思うが、己を語ることを嫌った中佐はおそらく「余計なことをしたな」と叱責するかもしれないと書き、「願わくば本書が青少年に広く読まれ、国民が日本人としての矜持を取り戻してほしい」と結んでいる。戦争の悲惨さは数多く語られても、こうした事実はこれまでほとんど明らかにされることはなかった。あの不幸な戦争を改めて客観的に見直し、戦争の意味を冷静に考えるうえでも、世界中で読まれるべき1冊である。

(本屋学問 2019年1月12日

自衛隊の闇組織 秘密情報部隊「別班」の正体/石井暁(ぎょう)(講談社現代新書 2018年10月)
本体800円

1961年生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。1985年共同通信社入社。現在、編集局編集委員。
1994年から防衛庁(現・防衛省)を担当。安全保障問題を中心に、自衛隊のルワンダ難民救援活動、環太平洋合同演習(リムパック)、北朝鮮不審船事件、イージス艦情報流失事件、元防衛事務次官汚職事件、尖閣諸島領有権問題、北朝鮮ミサイル発射・核実験、南スーダンPKO日報問題などを取材。月刊誌「世界」(岩波書店)に「日中軍事衝突をどう回避するか」、「陸自『別班』危険な暴走」、「台頭する自衛隊制服組」などを寄稿。

はじめに
 別班の輪郭
 別班の掟
 最高幹部経験者の告白
自衛隊制服組の独走
 おわりに

 はじめにのなかで「陸自、独断で海外情報活動」、「首相、防衛相に知らせず」、「文民統制を逸脱」、「自衛官が身分偽装」とあげ、陸上自衛隊の秘密情報部隊「陸上幕僚監部運用支援・情報部別班」(別班)が、冷戦時代から首相や防衛相(防衛庁長官)に知らせず、独断でロシア、中国、韓国、東欧などに拠点を設け、身分を偽装した自衛官に情報活動をさせてきた。

 ここに大きな問題があると指摘している。この組織は旧陸軍中野学校の流れをくむ後継の組織であると。

これ当たり前のことであって、国の諜報機関が、こういうことをしないでまともに機能するのかな、と素直に疑問に感じ、興味は半減。

 私はこの組織の成果を暴露して、組織に所属する隊員の身に危険を及ぼすような内容を期待していたので、安堵の次第です。

 日常の諜報活動をいちいち防衛相や首相に報告する必要もないし、それは要約されて防衛庁幹部から防衛相や必要によっては首相に報告されるべきものと考えるのが普通だと思う。
 現に安倍は、こうした自衛隊の存在が憲法に明記されず、憲法学者から違憲と批判を受けるのは不当だと主張している。
 憲法学者の言うことで政治は出来ない、私は安倍の言うことに理があると思う。

 2013年に起きたスノーデン事件(NSA(米国家安全保障局)が膨大な電話の通話記録を盗聴していたという報道のソースはCIAのE・スノーデン)。

 国家の安全はきれいごとで守れるものではない。かといって独裁国家のような人権無視もいただけないが、スノーデンは国家の裏切り者というイメージを持っている私には、著者の論調には肯けない。

スノーデンに言わせれば「民主主義の危機」かもしれないが、国家の安全のほうがより大事だ。

 米国からは指名手配され、ロシアに実質亡命しているが、これが逆だったら既に暗殺されてますよ。

というわけで、この書感は皆様に発表するようなものではないですね。

(恵比寿っさん 2019年1月14日)

世界史を変えた新素材/ 佐藤健太郎(新潮社新潮選書 本体1,300円 2018年10月25日発行)

1970年、兵庫県生まれ。東京工業大学大学院理工学研究科修士課程修了。医薬品メーカーの研究職、東京大学大学院理学系研究科広報担当特任助教授等を経て、現在はサイエンスライター。
2010年、『医薬品クライシス』(新潮新書)で科学ジャーナリスト賞。
2011年、化学コミュニケーション賞。
著書に『炭素文明論』(新潮選書)、『「ゼロリスク社会」の罠』(光文社新書)、『世界史を変えた薬』(講談社現代新書)など。

はじめに-----「新材料」が世界を動かす
 人類史を駆動した黄金の輝き-----金
 一万年を生きた材料-----陶磁器
 動物が生み出した最高傑作――コラーゲン
 文明を作った材料の王-----鉄
 文化を伝搬するメディアの王者-----紙(セルロース) 
 多彩な顔を持つ千両役者-----炭酸カルシウム
 帝国を紡ぎだした材料-----絹(フィブロイン)
 世界を縮めた物質-----ゴム(ポリイソプレン)
 イノベーションを加速させる材料-----磁石
「軽い金属」の奇跡-----アルミニウム
変幻自在の万能材料-----プラスチック
無機世界の旗頭-----シリコン
終章  AIが左右する「材料科学」競争の行方
あとがき  主要参考文献

 「律速段階」は生化学の用語で一連の変化の流れの中で、最も反応速度の遅い段階を指す。この段階の速度が全体の速度を決めるから。著者は文明発展の律速段階は材料だという。即ち、材料がブレークスルーになると。
 もう一つ、「クラーク数」は地球の表面に存在する元素の割合を示す数で、大きい順に酸素・ケイ素・アルミニウム・鉄・カルシウムということを初めて知った。

 著者は文明史上最大の材料の活用はコラーゲンと鉄だという。

 氷河期(直近は≒7万5千年前)を何度も潜り抜けてきたが、唯一の防寒着が毛皮であるが、鞣すこで動物の腐敗しやすい脂や余分なたんぱく質を除き、コラーゲン鎖同士の結合を変化させ、柔らかく耐久性を高めている(最初はひたすら噛んだが柿渋タンニン、今はクロム塩)人体におけるコラーゲンはタンパク質の1種でありながら異質で、一般のタンパク質は20種あるアミノ酸が一定の配列で長くつながっているが、決まった形に折り畳まって球状、しかしコラーゲンは、長く伸びた鎖が3本絡まりあった3重螺旋の長い繊維のままである。今やコラーゲンは化粧品・再生医療材料・医薬品の添加物など医療・医薬の分野で大活躍。植物の生み出した最高の材料がセルロースなら、動物が作り出した最高の材料はコラーゲンだと著者は断定している。

 歴史を変える材料には希少性ゆえ尊ばれるもの(金)と、安く大量に生産されていきわたり(鉄)、世の中を変えるものがある。ヒッタイト人が紀元前15世紀ころ発明といわれるが、それ以前から鉄は利用されていた、ヒッタイト人は鋼を開発し小アジアを制圧した。これが文明史における大きな律速段階を乗り越えたと著者はいう。そして彼らが滅亡したのは外敵もあるが、製鉄に必要な木炭確保のための森林を破壊しつくしてしまったからだと。巨大な産業が避けて通れない大きな環境破壊の結果が自らを滅ぼしたといえそうですね。デリーの鉄柱は錆びないダマスカス鋼だが製法は不明。

 製鉄技術はにっぽんで磨き上げられ、日本刀はその精髄とも述べられています。

 他に材料は幾多と登場したが、直接鉄に代わるものはない。ヒッタイト以来人類は変わらず「鉄器時代」にあり、鉄が材料の王座を降りることはなさそうだ。

(恵比寿っさん 2019年1月14日)
AIが人類を支配する日/前野隆司(マキノ出版刊 本体1,400円)

 著者は慶応大教授。サブタイトルに、「人工知能がもたらす8つの未来予測図」とある。「来るべきAI時代、何が起こりそうであり、何が起こりそうにないのか。大変動の時代に、私たちはどうふるまえばよいのか。AIにより、社会と生活が大きく変わっていくとき、私たちはどうすれば幸せになれるのか。それが本書の主要テーマです」と、慶応大教授の著者は言う。

 本書は、8つの問題について、恐ろしい側面と明るい側面という2つの視点で未来を描く。それぞれの問題について、過去と現在を確認し、AIの進化を踏まえて未来を予測する。しかし、できるだけ明るい未来を見て、人類の幸せを考えようというのが本書である。

 ①単純労働がなくなる、という。しかしAIができる仕事は、「良定義問題」といわれる仕事の内容を明確に定義できるものに限られる。AIの進化によって新たな仕事も創出される。人間は、個性と創造力を発揮できる仕事を選ぶべきだ。

 ②専門職もなくなる、という。しかし例えば、医療分野で、AIが得意とするデータ分析や画像診断をはじめ医療業務に進出しても、人間として患者に向き合う医師の仕事は無くならない。

 ③格差が拡大する、という。筆者の提唱する2つの社会システムに、「勝ち残りゲーム式社会モデル」と「全体が調和し、共生する社会モデル」がある。前者は典型的な近現代型システムで、これをAIが支援しているが、後者のモデルづくりにAIを取り込めと言う。

 ④日本が負け続ける、という。しかし、日本の中心には無情、無我、無私があり、それゆえに宗教、文化あらゆるものを取り入れて日本化してきた。日本人は決断が遅い。だから持続性がある。近い将来、情報系の技術進歩が停滞する時が日本のチャンスだ。

 ⑤忙しさが加速する、という。AIは人間の欲望を引き出して生活を忙しくする。それは「進歩的世界観」の一面だが、「循環的世界観」で歴史も世界の繰り返すという達観で、他人と比較しない自分流の生き方を求めるべきだ。

 ⑥ヒトが一番でなくなる、という。シンギュラリティ(技術的特異点)が到来したら、ヒトが一番でなくなるかもしれないが、賢いAIが緑豊かな地球を保護し、その中で人間が楽しく暮らす方が幸せではないか。

 ⑦永遠に生きねばならない、という。未来学者レイ・カーツワイルは、AIなどで医療テクノロジーが発達し、病気の克服、人体のサイボーグ化、脳のシミュレーション(私の保存)ができると予測する。ヒトは年をとるほど幸福度が上がると筆者は楽観的だ。

 ⑧人類が滅亡する、という。AIに悪知恵をつけたり、AIが暴走したりして人類が滅亡するより、AIに守られて幸せ、という可能性のほうを著者は信じる。人類がそういう新しい生き方を探す旅は、もうすぐ終わりとも、まだ始まったばかりともいえる。

 以上は、「第1章 AIがもたらす8つの恐ろしい未来」と「第8章 AIがもたらす明るい未来」の趣旨を勝手に合体させてもらったものである。

 実は、その他の章の、著者の哲学が興味深い。「ディープラーニングのどこがすごいのか―AIとロボットと私」。「われ思う、しかしわれなし―受動意識仮説とAI」「心のあるロボットの造り方―ヒトとゾンビとAI」。「経営学×幸福学―幸福学とAI」「死ぬとはどういうことか―死とAI」「全体調和型の社会をめざして―森とAI」。これらの章が、著者の柔らかく深い学識を披歴して読みごたえがあり、考えさせられる。

(山勘 2019年1月15日)

日本を愛した人類学者…エンブリー夫妻の日米戦争/田中一彦(亡羊社 2018年12月 本体2,200円)

 1908年アメリカ生まれの人類学者、ジョン・エンブリーは、日本語に堪能の妻エラと共に戦前の日本を何度も訪れた。熊本県球磨(くま)郡須恵(すえ)村には1年間住み込んで村人と交流した。この滞在経験を基に書かれた「須恵村」と「須恵村の女たち」は多くの研究者に読まれ、彼らの研究に影響を与えた。戦争勃発と共に帰国した夫妻は日本通として政府に協力させられたが、その立場はむしろ自国政府の批判者であった。日本理解のため戦時中に書かれた「日本人」には、「日本人には神秘的なオリエンタリズムなど何もない」と、自分たちと同じ人間であることを強調している。当時米国内に流布していた「日本人は生まれながらにして好戦的で残虐」という俗説に対する反論であった。

 エンブリーは「戦争を誘発したのは日本人の攻撃的な性格にあるのではなく、日本を取り巻く国際的な政治経済情勢にある」と戦争の大義に異を唱え、FBIの監視下に置かれた。しかしながら彼の日本に関する知識は占領政策の立案に大いに活用された。象徴天皇の言葉も彼の著作にすでに書かれている。日系アメリカ人の強制収容所についても、他の人々と一緒に自国政府の非を糾弾した。

 戦後の占領政策についてエンブリーは著書「日本人」の中で、「日本にはローカルな民主主義のシステムがある」と、一方的な押し付けを戒めた。須恵村で存在を知った組や講に期待したようであるが、残念ながら期待通りにはならなかった。そもそも我が国の社会は、エンブリーのように、個人として公然と体制に異を唱える者に不寛容ではないか?

 何はともあれ、このように日本人を深く理解したアメリカ人がいたことは、戦後の日本にとって幸運なことであった、本書が刊行されなければ、我々多くの日本人はこの恩人を知る機会も無かったであろう。同じ著者の「忘れられた人類学者(ジャパノロジスト) ?エンブリー夫妻が見た〈日本の村〉亡羊社2017年」もぜひ読んでみたい。

(狸吉 2019年1月15日)

 エッセイ 
 「だます統計」にだまされるな

 “だまし”ではないが、いま厚労省によるデタラメな「勤労統計」が世の批判を浴びている。統計や調査には「目的」があるが、往々にして正しい「目的」を装いながら、本音では、こんな調査結果を欲しい、などという「意図」を秘めた調査や統計が少なくない。

 隠された「意図」を持つ統計・調査は、巧妙な「設問」で回答を誘導する。その上さらに、調査結果に意図的な分析や解釈を加え、時には都合の悪い結果やデータは巧妙に隠して使わないことさえある。ビジネス上の調査・統計には特にそのような例が多い。

 「統計は暴走する」(佐々木弾著 中央公論新社刊)は、「だます統計」と「だまされる国民」に警鐘を鳴らす。当てにならない統計の例として、英国のEU離脱前夜の国民投票ではEU残留予想が80%、米国大統領選では主要報道機関100社の予測がほぼ全てが民主党勝利を予測したのに、結果がまったく逆になった例を挙げる。

 著者には悪いが、この例は、だまされたのは国民ではなく、マスコミや専門家のほうだと言うところが興味深い。ただし、その予測がはずれた原因が、積極的に声を上げない「サイレント・マジョリティ」を軽視したことにあるとする見方は頷ける。
 日本もその轍を踏む恐れがある。今年は、安倍政権と自民党が急いでいる憲法改正に向かって国民の意思が問われることになる。いずれは国民投票法で国民の判断も求められよう。新聞・マスコミの世論調査もある。勝手な予想だが、世論調査のほうはマスコミのカラーや調査方法などによって調査結果は少なからず違ってくるだろう。

 大新聞の例で考えれば、大ざっぱに言っても、「改憲反対」の朝日・毎日・東京新聞などと、「改憲賛成」の読売・産経・日経新聞などでは、おのずと調査の方法にも結果にも違いが出てくる。設問からして、「改憲反対」派のそれには、憲法の意義・理念重視の傾向が出るだろうし、「改憲賛成」派の設問には、日本を取り巻く「現実重視」の傾向が出るだろう。そして、仮に各新聞社の設問がまったく同じだとしても、回答者としては、各新聞の主張に共鳴する者がその新聞の調査に協力し、積極的に回答することになる。結果として新聞社の主張が助長されることになろう。

 だます統計として本書は、死刑制度に関する例を挙げる。それは、「死刑は廃止すべきである」9.7%、「死刑はやむを得ない」80.3%という調査結果を踏まえて、圧倒的に「死刑やむなし」となると結論づけた例である。しかしこれは別個の問題・設問だと言う。

 つまり、前段の設問では、死刑を「廃止すべきか」どうかと聞いた結果、「廃止すべきだ」との答えが1割弱と出たものであり、後段の設問では、現実問題として死刑を「廃止できるか」どうかを聞いた結果、簡単には「廃止できない」という答えが8割強と出たものである。つまりこれは本来、別個の問題として扱うべき問題・設問を並べて回答させ、回答結果を意図的にリンクさせて「死刑やむなし」と結論づけたものである。

 この例は、前述の改憲論議においても、理想論と現実論の間で、意図的に結論を誘導する設問の危険性を暗示している。唐突だが、私の改憲問題に対する姿勢は「戦争反対、軍備賛成」だ。調査に答えるなら、理想と現実の二項対立ではなく二項の掛け算で答える。

 今年の日本は、憲法問題だけでなく、格差問題、少子化・高齢化問題、社会問題、社会保障、基地問題など、多くの問題で国民意識が問われることになる。統計データにも、専門家の解説にもうっかり騙されない用心が必要だろう。

(山勘 2019年1月15日)

コスパ良く感動したい

 「コスパ良く感動したい」という記事を読んだ。要するに短い小説で効率よく手っ取り早く感動したいという話だ。実に安直でお手軽な感動だが、いま若者中心に“5分間小説”が流行っているらしい。“かた言ツイッター”に熱中する若者文化の“あだ花”と言っては失礼か。

 朝日新聞(1月7日)のその記事は、河出書房新社と小説投稿サイト・エプリスタが立ち上げた青少年向け短編小説集シリーズの話である。内容は「5分後に感動のラスト」を迎える作品を応募で選んだものだという。

 たしかに日本には俳句という17文字の文学もあり、4コマ漫画もあるのだから、5分間の物語もあり得ないことはない。しかし起承転結のストーリーを5分間の小説?に盛り込むのはやはり内容が安直にならざるを得ないだろう。

 また、「5分小説」の重要なキーワードが、「涙」「切ない」だというのも笑わせる。これはまるで演歌のセリフではないか。演歌でも長めのものは一曲5分ほどかかるが、「5分小説」では、大方の演歌と同様に、安直な涙、底の浅い切なさにならざるを得ないのではないか。

 と言いながらまた逆のことを言うようだが、演歌でも、例えば古い歌で、藤田まさと作詞「鴛鴦(おしどり)道中」の一節に、「染まぬはなしに 故郷を飛んで 娘盛りを 茶屋暮らし」という粋で小気味よい一節がある。

 この一節を、友人T氏の言葉を借りて“解説”すると、親に強いられた縁談話がイヤで泣く泣く家出をしたものの、浮世の風は冷たく、あたら娘盛りの身で、茶屋働きの茶屋暮らしにまで落ちてしまった、という人生ストーリーを見事に描写している―ということになる。ちなみにその後の歌詞では「茶碗酒なら 負けないけれど 人情からめば もろくなる」と、茶わん酒には強いが人情にはめっぽうモロい“いい女”が描かれる。

 当たり前だが、演歌の一節でも良いものは良い、ということになる。また、必ずしも起承転結のある小説ではなくても、感動そのものを一篇に切り取ったような話に、ひところ世の中を感動させたあの話、暮れの宵に貧しい母子3人が分け合って食べるという、「一杯のかけそば」の泣かせる話などもある。

 知らなかったので、朝日の記事にあった冒頭の「小説投稿サイト・エプリスタ」を開いてみた。会員150万人とかで、作家志望の若者も多いらしい。ツイッターを打ち続けたような会話の多い小説?で賑わっていた。

 小説(昔の小説)に“崇敬”の念すら覚える年寄りのこちらとしては、昔の作家志望者は同人誌などでウデを磨いたものだが―などと考えてしまう。したがって、つい「5分間の小説」はいかがなものかと思ってしまうのだが、ネット時代の若者文化の流れは、年寄りにとっては傍観しかないのか―。

(山勘 2019年1月15日)

ホツマエッセイ・魏志倭人伝の中の卑弥呼をホツマツタヱから読み解く

 古代日本の歴史の中で、卑弥呼、邪馬台国、銅鐸について、はっきりと解明されていないと、中学校の教科書に載っていたことが記憶の片隅にありました。

 当時は、魏志倭人伝が唯一の糸口と思っていました。その後、ホツマツタヱの存在を知り、どこかに糸口があるものと思いながら読み解いているうちに10年経っていました。

 魏志倭人伝での卑弥呼は、ホツマツタヱのなかで誰の事を言っているのか、改めて読み直してみました。

 ホツマツタヱの中では、「ヒミコ」と言う名称は存在しませんが、全巻を読み通していくと「ヒのミコ」という意味であったと炙り出しのように浮かび上がってきます。

 「ヒのミコ」を当時の大陸の人が伝え聞いた音声「の」が省略され、漢字を当てはめて卑弥呼という文字になったことが分かります。
 つまり「ヒ」とは「天・神」で天照大神を意味しています。「ミコ」とは皇女を言っています。
「ウチのオミコ」という表現も使っています。「ウチ」は内宮、「オ」は(御・大きい)皇女を意味しています。

 ホツマツタヱの記述の中では、「神の御杖代(みつえしろ)」(神のご意思に従って・神に代わって、生涯、天照大神にお仕えする「つきの宮」のこと)という役目がでてきます。天照大神の御霊を祀り続ける役目であったことを示しています。

 今で言うと「ヒミコ・ヒのミコ」・「神の御杖代(みつえしろ)」とは個人名ではなく神から賜われた役職名であったことがわかります。

 歌舞伎役者でも相撲の行司でも代々名前を襲名していくのと同じようなしきたりと考えます。宮司、大司教という呼び名も同じ意味合いであったと思います。
初代御杖代 「トヨスキ姫」
2代御杖代 「ヤマト姫ヨシコ」
3代御杖代 「イモノ姫クスコ」
がホツマツタヱの記述の「ヒのミコ・御杖代・斎女」になります。

 さて、この「神の御杖代」という役目が登場したのは、⑩崇神天皇の代になって、疫病が流行り、国民の半数が死滅したことにより、神の御霊を祀るのが不十分であったのではないかと判断されました。
 そのため⑩崇神天皇が、娘の「トヨスキ姫」(妃はメクハシ姫)に笠縫で天照神の御霊を祀らせます。
 最初の斎(いつき)の皇女になります。
 更に娘の「ヌナギ姫」(妃はオオアマウチ姫)には、山辺の里で大国魂の御霊を祀らせます。

 この「トヨスキ姫」は一生天照神の御霊を祀り続けます。

「トヨスキ姫」は、天照大神のお告げを受けて、御霊笥(みたまげ)を担いで、丹後の国の「よさ宮」(現、籠:この神社)「天の橋立」に行きました。
この美しい橋立(天の橋立)は、「かさぬい村」(やまと:天理市)から、宮津の天の橋立の松に、空高く雲がたなびいて崇高で美しいものでした。

「トヨスキ姫」が103歳になったとき、もう神の御杖代を続けられないと「ヤマト姫」に見習わせます。このとき、「ヤマト姫」は未だ11歳でした。

たまき宮二十二年十二月二十八日(末の八日)に、「ヤマト姫」は、「みつえ(御杖え)しろ」になりました。
この「ヤマト姫ヨシコ」は垂仁天皇と「カバイツキ姫」の間の皇女になります。

 この「ヤマト姫」(ヤマト姫ヨシコ)が、魏志倭人伝の卑弥呼に合致する人物と分かります。いくつか一致する記述を抜き出してみます。

 垂仁天皇の代に、任那より使者が来日、国交が開かれるという記述があります。
それより以前に「もろすけ」(新羅の皇子「あめひぼこ」の長男)が臣に,「あめひぼこ」は国を巡った後、但馬に住み「またおお姫」を娶るという記述もあります。

これらのことから、魏志倭人伝に伝えられた背景にもなったと考えられます。

「魏志倭人伝」には
 倭国はもと男子を王としていた。7~80年すると、倭国は乱れて、互いに攻撃し合うことが何年も続き、そこで一人の女性を共に立てて王とした。名を卑弥呼という。鬼道(巫術・妖術)を行い、よく人々を眩惑した。歳はすでに年配であるが、夫を持たず、男の弟がおり国の統治を助けている。・・・・
とあり、ここでの弟とは景行天皇のことを示していると思われます。
「ヤマト姫ヨシコ」と景行天皇とは異母兄弟です。

 崇神天皇の代に謀反が発生しています。「タケハニヤス」と「アダ姫」が反旗をひるがえして軍(いくさ)を起こし、「イサセリ皇子」が逢坂山で打ち破ります。遠隔地ではまだ争いが絶えず、ヨモノオシエド(将軍・四方の教導人)を発たせました。
 当時、疫病が発生して、民の半数が死滅したという背景があります。「倭国は乱れて」という記述を裏付けています。

「ヤマト姫」の記述から
「ホンヅワケ」(垂仁天皇とサホ姫の子)が生まれながらにしてものを言わなかった(声を出さなかった)ので、「ヤマト姫」に祈らせた。
 その時、白鳥が飛ぶのを見て「ホンヅワケ」は、初めて声を発した。「ユカワダナ」がこの白鳥を捉え「ホンヅワケ」に贈り、「ユカワダナ」に「とりとり」の名前を与えられる。
「ヤマト姫」は粥占いで、「ホンヅワケ」を祈ったとあります。

「ヤマト姫」の母、「カバイ姫」が産後半月で亡くなる

 ヤマト姫を、内宮の「おみこ(御神子):御杖(みつえ)の役」として御霊笥(みたまげ:天照大神の御霊)を担いで飯野宮から「いそべ」(いそのみや:伊蘇宮)に遷して鎮めました(安置してお守りしました)。

 良い宮の候補が「さ」にあると、神の告げを受けます。

「さ」は、南と解釈できますが、「さごくしろ」の「さ」を示していると思われます。
 宇治へ行き、神風の吹いた伊勢の宮の跡で、三宝(三種の神器)が祭られる本来の場所であると申しました。
  宮を建てるため整地をします。八十人もの供達に命じて、いそすず原の草を刈らせ、山の木を切らせ整地させました。そして、 宮が完成し落成式が執り行われました。

 まきむき宮二十六年九月十六日、天照大神が「いそすず川」(伊勢内宮)の「さごくしろうじ宮」(高天原)にわだまし(渡御:とぎょ、お入りになる)されました。

御丈柱(背丈に合った天の御柱)を納められました。

 天照大神も喜ばれ、「やまと姫」に、伊勢の宮は、トヨケの神と未来永劫、鎮座して守るべしと告げられました。この天照大神の言葉は「やまと姫」に乗り移って、垂仁天皇に告げられました。

 景行天皇は九州の熊襲が背いたので征伐に行きます。帰って来るまでに7年間要していました。戻ってきて、報告を伊勢の神に報告しています。伊勢の神とは天照神が祀られており、このとき、ヤマト姫は108歳になり、14歳になった「イモノ姫」が引き受けます。
 
 蝦夷が背いたので、景行天皇の息子のヤマトタケがエミシ征伐に向かう時、伊勢に立ち寄り、ヤマト姫にあいさつに行き、錦袋(秘密の祓いの呪文が書かれていたものが入っていた)と、昔ソサノオが取り出した「むらくもつるぎ」を授かります。

 この二つの事例でも、伊勢の方が国の中心と思われていても不思議ではない気がしました。

(ジョンレノ・ホツマ 2019年1月15日)