例会報告
第76回「ノホホンの会」報告

 2018年3月20日(木)午後3時~午後5時(会場:三鷹SOHOパイロットオフィス会議室、参加者:狸吉、山勘、恵比寿っさん、ジョンレノ・ホツマ、本屋学問)

致智望さんが止むを得ないご事情で欠席された他は、皆さん元気に集合しました。今回も書感、エッセイともに投稿量が多く、皆さんの意気込みを感じます。毎回健康や生き方に関するテーマがあるのは、それだけ関心が高いからでしょうか。次回も活発
な投稿をよろしくお願いします。致智望さんの書感「身辺整理…」は、次回の発表をお願いします。

(今月の書感)
「健康診断は受けてはいけない」(恵比寿っさん)/「身辺整理、わたしのやり方」(致智望)/「不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか」(山勘)/「マキアヴェッリ語録」(狸吉)

(今月のネットエッセイ)
「要するに、分かる『憲法9条』に」(山勘)/「人間とは、生きるとは、必要な未来哲学」(山勘)/「過ちを改めざる」(本屋学問)/「SONYは地に落ちた?!」(恵比寿っさん)/「一つ目小僧と「つるぎ」(剣)」(ジョンレノ・ホツマ)/
「遅まきながら本番「憲法9条」」(山勘)/「〈人間〉と〈屁〉と〈声〉の話」(山勘)

 (事務局)

 書 感
身辺整理、わたしのやり方/曽野綾子(興陽館  本体1,000円)

 今月も曽野綾子のエッセイ集になってしまった。本書は、エッセイ集として書かれていて、身辺整理がテーマであり日常生活のことや著述業に関わることにも触れているのであるが私の個人的には、整理というもの考え方にも、この人の思い切りの良い意見がすがすがしく参考になる部分が多かった。特に、ご主人を亡くなされた以後の身の振り方、ご自身の身辺整理に及ぶあたりが、私の求める人生の始末と言うテーマに興味を持ち読み続けたのであるが、期待通りの著者の所信には圧倒された。全ての後期高齢者いや末期高齢者に読んでもらいたい内容であり、特に未熟な私には、後半の第6章から10章に至る部分が、大いに参考になる部分であった。

 と言うことで、本書感は、やがて死を迎える我が身の心構えと言う、私の琴線に触れたテーマを主体に書感を記すことにしたい。

 参考までに、その第6章までのテーマを記しておく。
ものは必要な量だけあることが美しい
身辺を整理して軽やかにくらす
服は持たない
人間関係の店仕舞いをする
食べ物は使い切り食器は使い込む

 さて、私が主題とする第6章から入る。

家族を介護し、始末する
 最初のテーマが、「夫の後始末をする」である。続いてのテーマが、「老々介護という姿」、「親子関係は人間を鍛えてくれる」、「老人介護は手抜きがいい」、「最期を迎える老人の心は柔軟である」、「人は中年から老年にかけてさまざまなものを失う」、「死んだあとはなるようにしかならない」、「親子は順を追って立ち去ってゆく」、これが第六章のテーマすべてである。

 最初のテーマ「夫の後始末をする」の内容を記してみると、ご主人が亡くなって間もなくの頃のことが記されている。息子の嫁さんが訪ねて来て、ご主人の遺留品の整理を手伝っているときの状況が述べられている。死後の埋葬には金を使うな、夫も自分も親達4人の墓に入れてくれと依頼。生前のこと、ご主人が着るものに拘り、ネクタイなどが多かった、その他遺留品が多く煩わしかった、男はラーメンを食べるときに涎掛け的な粗相をするから、ネクタイはいくらあっても足りないはずと言って、嫁に持って行かせたなどの口調で述べられている。また親しくしているシスターが訪ねてくれて、夕食を共にして楽しい思いをしたとか、旧知の友人が関係者を集めてくれて、面白い話に花が咲き、個人をしのぶ会とは言え、どんな接待よりも、面白い人たちと話しを交わすことが最高の幸せと言う。

 「老々介護という姿」という切り口では、著者のご主人の介護のことが記されている。介護に人を雇って自宅で看取りまで面倒を看たという。その間仕事は、著述以外の講演や対談はすべて断り、介護に専念しつつその間の事柄が述べられている。食事排泄などの世話は当然確りやるとして、大切なことは体が弱って死に行く人の心に触れることだと言う、介護に専念する著者流の持論が伺え参考になった。

お金はきれいに使い尽くす
 この章も考えさせられる内容が多い。とりあえず、本章のテーマとなる切り口から記すと、「老年になるとお金にもものにも執着が少なくなる」、「貯金をきれいに使い尽くす」、「老後のお金の計算違い」、「老後の暮らしはお金と相談する」、「お金がない人は才覚で楽しむ」、「人間が必要とするお金はわずか」、「お金はつかうためにある」、「夫のへそくりの使い方」、「思いのままにできることはこの世にはない」、これが六章の切り口。

 金がなければ老後も楽しくないと考えがちであるが、これは人の考えようと生き方という。
例えば、お金がないから新聞とるのを辞めたなどと言うのは自分には考えられない、とんでもないことだと言う。新聞ほど内容が豊富で安いものは無いという。

人はそれぞれの病気とつき合い生きる
 この辺りから死を迎える心構えのような持論が展開される。その切り口を記す。「健康診断は受けない」、「不自然な延命を試みる医療は受けない」、「もういつ死んでもいい老後を決める」、「体の少々の不調はあきらめて付き合っていく」、「集中治療室は残酷極まりないもの」、「老いという病気でない運命に従う」、「人は病いとともに生きる」、「書くことで、最低の人間を保つ」
死ぬときは野垂れ死にを覚悟する。

 いよいよ、敬虔なキリスト教徒である著者の真骨頂が現れだす。
本章の切り口を列挙すると、「何もかもきれいに跡形もなく消える」、「失うことに準備する」、「老年の衰えは一つの贈り物」、「死んだ後のことは何一つ望まない」、「墓は自分の名乗っていた家の墓でなくていい」、「消えゆくことは美しい」、「死ぬということは、新しいものを生み出すこと」、「死ぬときは皆、野垂れ死に」、「自然の寿命をたいせつにする」、「じぶんを始末する」、「人間の死後にたいする扱い方」、「六十を過ぎたらそろそろ死に支度をする」、「いつまでも生きていたいと思わない」、「静かに死ぬのが一番」。「自分だけが不幸なのではない」、「明日、最期がきてもいいように」、「これからどこへでも一緒」以上の項目が切り口となっています。

第10章 人生の優先順序を決める
 「上手に諦める」、「目的は一つでいい」、「運命に流されてみる」、「やることの優先順位を決める」、「その日を楽しくする」、「人間は死ぬ日まで、使える部分を使う」、「自分の晩年が何時になるか、誰もわからない」、「人間の暮らしは『出すと入れる』」、「夜の時間を読書にあてる」、「楽しい老人になれ」、「なるがままに生きる」、「年貢の納め時は自分で決める」、「運命の半分は自ら作る」、「忘れることで、穏やかな境地に達する」、「適切にくらす」、「この世で何を果たしてきたか」、「今日はこれだけにする、という具体的な目標を持つ」、「『忘れられる』という大切な運命」。
 以上が第10章のテーマであります、一見宗教染みたテーマでありますが、敬虔なキリスト信者でありながら、世界あらゆる社会の人間の生きざまを見て、著作のテーマに生かした人だけに、その見る目と側面、加えて文章力は、仕事一途に歩んだ私には参考になりました。

 (致知望 2018年3月14日)
健康診断は受けてはいけない/近藤誠(文春新書 2017年2月20日第1刷発行 本体740円)

1948年生まれ。近藤誠がん研究所所長。73年慶應義塾大学医学部卒業、同大学医学部放射線科入局。79~80年、米国へ留学。83年から同医学部放射線科講師を務める。96年には著書『患者よ、がんと闘うな』(文芸春秋)で抗がん剤や拡大手術などがん治療の在り方に一石を投じた。2012年には第60回菊池寛賞受賞。14年、慶應義塾大学を定年退職。13年に「近藤誠がん研究所 セカンドオピニオン外来」を開設。

著書に『これでもがん治療を続けますか』『がん放置治療のすすめ』『がん治療で殺されない七つの秘訣』(文春新書)、『抗がん剤だけはやめなさい』(文春文庫)、『医者に殺されない47の心得』(アスコム)他多数。

はじめに  効果を示すデータがないから40年間受けなかった
検診を受ける人と受けない人
がん検診の効果を検証する
検診のデメリット
どれほど死者が増えるのか?
がん検診に救命効果がない理由
検査値の異常
新たな検診
温故知新――検査機器とクスリに頼る日本の医者
検診を宣伝する者たち
ではどうするか?

 日本人の多くは「健康のため」職場の検診や人間ドックを受診しているが、こうした検診は欧米にはない。「より健康になる」「寿命を延ばす」という効果を示すデータが存在しないからだ。検診は過剰な医療介入のきっかけとなり、日本人の寿命を縮めている(帯より)。

 私の世代に最も関係する部分をかいつまんで引用すると、
 前立腺がん、甲状腺がん、乳がんなどの「潜在がん」は放置すればよい。がんには放置しておいても転移しないがんと転移するがんがあり、「今は転移しなくても放置すれば転移するがん」は存在しない。がんもどきも本物も顕微鏡検査ではがんと診断される。どちらかを確実に知るためには5年以上かかる。本物であれば治らないので手術や抗がん剤は無駄であり、もどきであれば放置しても転移は現れないので、治療は無駄。死後の人を解剖すると潜在がんが見つかる。これは転移しないし人を殺さないから放っておけばよい。

 以上のように、検診は意味を成していないということがいろいろと示されている。
 最終章には、①健康な時には検査は受けない─医者に近づかないこと②職場健診の強制にどう対処するか?──厚労省は人の基本権を侵害してまで省益の維持・拡大。要精密検査の蟻地獄にはまらぬよう検診は受けるけど検査項目を減らすというのが妥当。③検査で病名を付けられたらどうするか──主治医を信じて薬を飲むのが一番楽だが、自己責任。別の選択肢は断薬④まず薬の危険性を認識せよ──「薬の名前」「添付文書」で検索すればすべてわかる(その副作用などが)⑤降圧剤も止められる──体の調節システムは、血圧を無理やり上げる役目から解放されるので、下がるケースもある。上がる場合もあるが、それはリーゾナブルな値だ⑥断薬の三つの方法⑦玄米菜食、肉食制限、糖質制限で死亡率は高まる──健康なのはチョイメタ⑧百歳長寿者は肉や魚をたっぷり摂取──大切なのは肉、魚、タマゴ、牛乳など高たんぱく・高脂肪の食材。それに炭水化物、野菜、果物が良い⑨検査値より自分の体を信じることが健康の秘訣⑩検査値は体が完璧に調整した結果⑪検診が作り出す虚病⑫日本の医療は「不安産業」⑬医者と科学技術が築き上げた壮大な虚構、と言い切っている。

(恵比寿っさん 2018年3月14日)
不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか/鴻上尚史(講談社 本体880円)

 本書のオビに「死ななくてもいいと思います。死ぬまで何度でも行って、爆弾を命中させます」という、本書の主人公佐々木友次(ともじ)の言葉があり、『9回の出撃。陸軍参謀に「必ず死んでこい!」と言われても、命令に背き、生還を果たした特攻兵がいた』とある。そして、「僕はどうしても、この人の生涯を本にしたかった」という筆者鴻上尚史(こうかみしょうじ・作家・演出家)の言葉がある。

 佐々木は、陸軍の第一回特攻隊「万朶隊」(ばんだたい)の一員に選ばれた。21歳だった。万朶隊は、フィリピンに基地を置き、レイテ湾の米艦船を標的に、九九式双発軽爆撃機(略称九九双軽)に800キロの爆弾を括り付けて体当たりするものだった。隊では、身長160センチで童顔の佐々木の、大胆で攻撃的な操縦が評判になり、万朶隊隊長の岩本益臣大尉に可愛がられた。
 岩本大尉は、陸軍士官学校卒の28歳だった。万朶隊は、岩本隊長のもとに、陸士出のエリートパイロット4名、佐々木友次たち下士官の操縦者8名、通信係4名、機体整備11名の編成だった。

 岩本大尉は、特攻作戦に反対だった。敵艦に体当たりさせるために、爆弾投下できないように改造されていた機体を、鋼索(ワイヤーロープ)を使って手動で爆弾投下ができるように、修理・整備部門を説得して改造させた。さらに、緊急避難のために、日本軍の150近い飛行場と特長を記したフィリピン要図をパイロットに配った。隊員には、「爆弾を投下して、生きて帰ってこい」と教えた。

 しかしその岩本隊長が出撃することはなかった。宴会好きのマニラの富永司令官の招きで、不本意ながら岩本隊長以下5名の将校がルソン島を飛び立ち、直線距離90キロのマニラに向う途上で、2機のグラマン戦闘機に襲われた。軽量化のために機関砲まで外された九九双軽、一機の護衛戦闘機もつけていない丸裸の九九双軽はあっけなく撃墜され、岩本らは即死した。

 佐々木は、昭和19年11月12日の第1回特攻を皮切りに、わずか1カ月と数日の間に9回の特攻命令を受けることになる。1回目は、富永司令官、猿渡参謀長らの臨席で出撃の宴を張り、百式司偵機1機を先頭に、万朶隊の九九双軽4機、直掩戦闘機の隼20機が、レイテ湾に向けて飛び立つ。佐々木はようやく見つけた敵艦、小さな揚陸船に向けて800キロ爆弾を投下したが、海面に大きな波紋が沸き立っただけ。しかし夕刻の記者発表では、佐々木は戦艦1隻撃沈、名誉の戦死で翌日の新聞一面を飾った。別の基地に避難、経由して翌日帰還した佐々木に軍部は困惑した。

 以後は、万朶隊4機で2機生還。あるいは出撃直前の米機空爆で中止。また、悪天候の夜間に、マニラ近くに不時着して搭乗機を大破させながら軽傷で奇跡の生還をしたこともある。佐々木の1機と6機の直掩機で出撃の時は、隼隊長が佐々木を殺さぬと決断し、悪天候で戦艦発見できずとして引き返したこともある。9回に及んだ佐々木の特攻の成果は揚陸船1隻、大型船1隻撃沈。
 岩本大尉らの命をムダにし、徹底抗戦を高言していた富永司令官は、昭和20年1月16日、米軍の迫るマニラから台湾に逃亡した。佐々木らは、終戦まで山中を逃げ回った末、生き残った。

 本書を読んで感じるのは、佐々木友次という人間の精神的な強さである。上官の罵詈雑言、死の強要にも深い恨みを抱かない性格、仏への信心、加えて、日露戦争生き残りで「人間簡単には死なない」というのが口癖だった父と、「生きて帰れ」という岩本特攻隊長の教えがいつも脳裡にあった。

 そんな佐々木を淡々と描いた筆者の鴻上は、佐々木の無念を代弁するように、終わりの1章を割いて「特攻の実情」を厳しく批判する。特攻の欺瞞、軍隊の偽善、嘘、洗脳、無責任、欠陥リーダーやマスコミの責任、「命令する側」と「命令される側」の心理を無視し混同させた特攻礼賛や美化を非難し、この戦争を総括した戦後の東久邇宮総理の発言「一億総懺悔」を指弾する。

(山勘 2018年3月18日)

 
マキアヴェッリ語録/塩野七生(新潮社 2003年7月 本体1,900円)

 Wikipediaによれば、「マキャヴェリズムとは、どんな手段や非道徳的な行為も、結果として国家の利益を増進させるのであれば許されるという考え方」とある。目的のためには手段を選ばないというものである。

 本書はイタリアの歴史と文化に造詣の深い著者が、マキアヴェッリの書き残した多くの著作の中から、現代日本人にとって有益と思われる言葉を集めたものだ。著者が冒頭で断っているように、本書はマキアヴェッリの思想の要約や解説ではなく、マキアヴェッリの言葉をそのまま提示している。ただし、読みやすくするため内容により似た語録を集め、見出しを付けて元の語録(要約)を読めるようになっている。著者自身はマキアヴェッリの言葉に非難も賛同もしない中立の立場と断っているが、偉大な思想家として敬意を払っている姿勢が感じられる。

 以上14ページに渡る「読者に」と題する前書きの後に目次がある。この目次がまた35ページに渡る長編で、すべての見出しをここには書ききれない。これまで見たことのない変わった構成である。とは言え何も書かぬ訳には行かず、適宜端折って紹介しよう。本書で採り上げられた語録は三部に大別され、それぞれ見出し番号が付いている。見出しは「…」や「しかし」で終わっており、「その先は?」と引き込まれるのは著者のうまい工夫である。

君主論
 1.わたしがここに書く目的が、このようなことに関心をもち理解したいと思
う人にとって、実際に役立つものを書くことにある以上…

2.歴史に残るほどの国家ならば必らず、どれほど立派な為政者に恵まれようとも、二つのことに基盤をおいたうえで種々の政策を実施したのであった。それは…(以下76項目)

国家篇
1.祖国の存亡がかかっているような場合は、いかなる手段もその目的にとって有効ならば正当化される…(以下50項目)

人間篇
1.名声に輝く指導者たちの行為を詳細に検討すれば、彼らがみな、運命からは、機会しか受けなかったことに気づくであろう。そして…(以下57項目)

 本書の語録183項目すべてを論ずることはできぬが、有名なのは、「祖国の存亡がかかっているような場合は、いかなる手段もその目的にとって有効ならば正当化される」であろう。その先は「この一事は、為政者にかぎらず、国民の一人一人にいたるまで、心しておかねばならぬことである。事が国家の存亡を賭けている場合、その手段が、正しいとか正しくないとか、寛容であるとか残酷であるとか、賞賛されるものか恥ずべきものかなどについて、いっさい考慮する必要はない。何にもまして優先されるべき目的は、祖国の安全と自由の維持だからである。」と続く。これを読むと、ひとたび事が起これば、一夜にして徴兵制が復活するだろうと感じる。

 記憶に残ったのは、「個人の間では、法律や契約書や協定が、信義を守るのに役立つ。しかし…」権力者の間で信義が守られるのは力によってのみである。という語録だ。最近の北朝鮮とアメリカのやり取りを見ると、「これは正しく時と場所を越えた真理」との感が深まった。

(狸吉 2018年3月18日)

 
 エッセイ 
ホツマエッセイ/一つ目小僧と「つるぎ」(剣)

 三種の神器には、「勾玉」と「鏡」と「剣」があります。
今回は、その中の「つるぎ」(剣)をとりあげてみました。
「つるぎ」(剣)の生まれた背景、「つるぎ」(剣)のもつ意味合いがホツマツタヱの中に記述されています。後世になって、この「つるぎ」(剣)を作った人が一つ目小僧と呼ばれるようになったことが分かります。

① 「つるぎ」(剣)が生まれる元になったのは、「天」の「鉾」(ほこ)を示していました。
「クニトコタチ」までの大昔の人々は、皆素直で法を守っていたので鉾など不要のものでした。平和な時代が続いていました。
 
 天神4代の「ウビチ二」の世になり陰りが生じ、天神6代の「オモタル」の代になると、「とき者」(目先の利く者、隙を狙う者、盗人)が現れ、他人の物を奪うようになりました。
この「とき者」に対処するため、斧を使って斬り、そして治めました。
 
斧は木を切る道具だったので、「かねり」(鍛冶人)に鉾を作らせました。この鉾(ほこ)で「とき者」を斬ったら、世継ぎがいなくなってしまいました。逆鉾(さかほこ)とは、逆らう者を治めるという意味になります。
 世継がいなくなったということは、天神6代「オモタル」で代が途絶えてしまったことを言っています。
「アメミオヤカミ」(天祖神)・・・「アメミナカヌシ」・・・「クニトコタチ」・・・「クニサッチ」・・・「トヨクンヌ」・・・「ウビチニ・スビチニ」・・・「オオトマエ・オオトノチ」・・・「オモタル・カシコネ」・・X

 天神7代として、新たに豊受神が世継として、イザナギ(タカヒト・カミロギ)を探し出します。 仲人を立て娘のイザナミ(イサコ)と夫婦になり、両神(ふたかみ)となります。
 その後、天照神の代になり、「つるぎ」(剣)が登場します。

②「つるぎ」(剣)のそれぞれの文字の意味は、

 「つ」は、木の年齢(よわい)のことで、「あ」(天)に尽きて(つきて)の「つ」を意味しています。天命が尽きる「つ」です。

 「る」は、柴(雑木)が、枯れ木になって燃えるように「るぎ」の炎のことです。「る」は木の霊です。

 「ぎ」は木が枯れて、寿命が尽きて思い残すこと(生への執着)がない状態を言います。

③ 天照神は10人の鍛冶人(かねり)に「つるぎ」(剣)を作らせます。その中の一人に秀でた者がおり、左右の眼に活き枯れがあることを教えます。
 「汝が作った「つるぎ」(剣)の刃は良く鋭利である。しかしながら、左右の眼(まて・両方)の活き枯れのあることを知らないようなので教えましょう。」

 「た」(左)の眼は春の生き生きとした気力があります。「た」(左)目の生気(眼力)を入れ込んで「つるぎ」(剣)を練り上げて(鍛造して)造り上げると、出来上がった「つるぎ」(剣)は、生き身(活気身・善人・罪なき者)に近く、枯れ身に疎いものになります。
 使い方を誤れば、生き身(活気身・善人)を斬り殺すことになり恐ろしいことになります。

 一方、「か」(右)の眼は秋の枯れていく「気」(気配・自然の流れ)になります。この「か」(右)の眼力で「つるぎ」(剣)を練り上げて(鍛造して)造り上げれば、出来上がった「つるぎ」(剣)は、枯れ身に近く(親密で)、生き身(活気身)に疎いものになります。

「か」(右)目の眼力を入れ込んで鍛造した「つるぎ」(剣)は、「枯れ身」(罪人)を好み、「生き」(善人)を恐れます。この「つるぎ」(剣)は、悪に立ち向かい、善には見向きません。

 「か」(右)目の眼力を入れ込んで鍛造した剣こそが、青人草(民)を治める宝物です。「た」(左)の眼を閉じたまま、「か」(右)目だけの気を入れて「つるぎ」(剣)に叩ぎあげなさい(鍛造しなさい)と宣いました。

④ 鍛冶人は、畏れ多く思い、100日の物忌み(祭事において神を迎えるために,一定期間飲食や行為を慎み,不浄を避けて心身を清浄に保つこと)をしました。心身とも清浄になり、「か」(右)目だけで「つるぎ」(剣)を鍛造しました。
 そして、八振り(八本)の「つるぎ」(剣)が出来上がりました。

 天照神は、出来上がった「つるぎ」(剣)を前にして、詔りをされました。
「今、この目の前にある「つるぎ」(剣)は、我が心に良く叶っており、今のこの世を治めるにふさわしい宝物です。名前も八重垣の「つるぎ」(剣)と名付けることにします。」

 ⑤天照神は、この「かねり」(鍛冶人)を褒めて、天目一箇(あまめひとつ)の神という名前を賜われました。

 この天目一箇(あまめひとつ)の神が、おとぎ話や伝承に「一つ目小僧」という名前になったものと思われます。
 この場所は、火を使っており危険でもあり、神聖な場所であったので、近づけないようと、お化け伝説にされたことも分かります。

⑥ この出来上がった八本の「つるぎ」(剣)は、「かなざき」と六将神「ふつぬし・たけみかづち・かだまろ・いふきぬし・たちからを・くまのくすひ」の6人に賜わりました。残りの一本は天照神が持っていて、後に「くしひこ」に賜うことになります。

 この剣の功績は「つるぎ」(剣)の持つ勢い(威力)によるものでした。
枯らさなければならない者(罪ある者)は枯らして(剣自身が殺すべき者は殺し)、生かさなければならない者(罪なき者)は、生き(生)を得ました(剣自身が生かす者は殺さない)。
 
 例えば、林を切り開くとき、切り出して邪魔になった木を焚く(燃やす)とき、「こたま」(木の霊・精霊)が既にいなくなっているように、斬るべき咎(罪)は、全て斬りつくされることによって、思い残すことはありません。

 自分自身の驕りを守る垣が八重垣の剣です
もし、民が驕り身の程を忘れて、遂には「つるぎ」(剣)を受けるようなことにでもなったときに、受けさせてはならないと判断するのが身を守る垣になります。

 もしも、司(国神)に驕りが生じて(自分の勝手で)、民を枯らす(殺す)ようなことにでもなったら、非常に罪が重いものになります。

 このような時には、緯糸役(織物に例えて、たて糸が命令系統であるのに対して、よこ糸は第三者の目として監視することを示している)である緯部(よこべ)が、「あらためて」(検察して)その民を生かします。(殺すことが正しいかどうか取り調べて明らかにします)

 臣・小臣は、自分自身の驕りを表に出すことなく、こらえて、天成道を守りなさい。
常に天成道を守る心がけでいることが、自分自身を守る垣になり、まさに八重垣の剣とはこのことです。

(ジョンレノ・ホツマ 2018年3月14日)
  

過ちを改めざる

大阪の私立学校の土地の取得問題で、財務省の公文書が何度も書き換えられたとマスコミや国会が大騒ぎしている。どうもこの学校の設立に首相夫人や国会議員らが関係していて、そのことに管轄の部局が気を回し過ぎたという話で、?忖度”という言葉が流行語にもなった。財務省も国会軽視という民主主義を否定することの重大さを知ってか、やっと書き換えを認めたが、残念なことに担当者が自殺するという悲しいことも起こってしまった。腐り切った行政をどう立て直すか、政権を揺るがすこのスキャンダルの真相解明には、相当時間がかかりそうである。

昔は帝国大学と呼ばれていた有名国立大学で、入試問題の正解が複数あったというニュースが話題になったが、それ以上に問題だったのが、試験終了直後に外部からいくつも疑問が指摘されていたのに、大学当局がそれを明らかにしたのが1年近く経ってからという当事者能力のなさだった。慎重を期したとはいえ、担当者の弁明だけを聞いて外部の意見を無視したことが大恥をかく結果になった。採点ミスで不合格になった受験生の救済など、今後の大学の負担は計り知れない。

走行中の新幹線の台車に亀裂が入った事故は、最悪の事態にならない前に列車を止めることができたが、製造工程や品質保証で未熟な技術的問題があったことがわかった。鉄鋼メーカーや自動車メーカーの品質や性能の不正表示問題も、海外では訴訟騒ぎになるほど社会に悪影響を与えている。これら一連の不祥事は、これまで“メイド・イン・ジャパン”を支えてきた技術的、精神的伝統を根底から覆すほどの衝撃であり、日本は本当に大丈夫かという声が上がっている。

それで思い出したのが、2年に一度開かれる「国際技能競技大会」、通称「技能五輪」と呼ばれる技能の国際大会での出来事である。機械製図、加工・組立、溶接、車体塗装といった工業部門から、家具、造園、広告・デザイン、美容、料理など50近い職種で、各国を代表する技能者たちがその能力を競うこの大会は、いわば産業立国の基礎体力を示すまさに技能のオリンピックなのである。

20年ほど前の大会だったか、出題された機械図面に従って部品をいくつか加工し、それらを組み立てて最終的に動かすという課題に、多くの選手たちが挑んだ。もちろん、日本からも若い技能者が参加し、図面通りに加工して組み立てたがどうしても動かない。電卓を叩いては、部品が寸法通りに仕上がったか何度も確認した。そして、最終的に彼が出した結論は、「問題が間違っている」だった。

彼が意を決してそのことを申し出ると、最初は取り合わなかった大会関係者は、スイスの選手からも同じ疑問が出されるに及んで問題を見直し、出題に寸法の誤りがあったことを認めた。再出題された課題で、もちろん、その日本人技能者は最高点で金メダルに輝いた。ものづくり日本が元気だった頃の面目躍如のエピソードである。

森?外の「最後の一句」ではないが、国民は法律やお上の決定に間違いはないと思っている。しかし、実際には人間のすることだから、法律にも政策にも間違いや過ちはある。ただ、保身や不正のために真実を曲げるという“過ち”を繰り返していると、最後には取り返しのつかない結果になることは、過去の歴史がよく物語っている。

「過ちを改めざる、是を過ちという」。論語の言葉だそうだが、それでもこの過ちが個人レベルはいうに及ばず、組織や国家レベルでどれだけ繰り返されてきたことか。最近の日本を見ていても、正義や良心のシンボルであるべき司法はもちろん、立法や行政、さらにマスコミまで、どうかと思うことが多すぎる。日本全体が思考停止して、過去の「過ち」の連鎖を拡大しているようでならない。
80年前、何度も改める機会はあったのにそうはせず、結果的に数百万の尊い命と国家の独立を失ったこの国が、真の成熟した国家として再生するのに必要なのは、この古くて新しい言葉ではないのか。

(本屋学問 2018年3月14日)

SONYは地に落ちた?!

 SONYの業績が急回復しています。
 今期(2018年3月期)は営業利益6300億円と予想され、これは史上最高だそうです。6300億円と言うと、バブルの頃にはもっとあったんじゃないかと思うくらいですが、この数字正しいようです。

 家電というかコンシューマー製品を主力としている会社ですから、これも妥当と言えば妥当。私が言いたいのは、これがSONY?!と言えることを目の当たりにしたからで、その件ではいまだに解決策が得られないで、困っているからです。

 SONYと言えば、身の回りの電気製品では最も信頼をしていた会社で、製品もそれに使うテクノロジーも一味違っていて、私のような理系の人間はSONY一辺倒なところもありました。また、社風も素晴らしく経営も一流企業にふさわしいものでした。高級ラジオICF-SW55はもう20年も使っています!

 その後、世の中は激変してリストラも進みましたが「グーグルで必要なことは、みんなソニーが教えてくれた」(←2011年6月29日投稿の書感)というように光り続けている会社でした。

 過去形で書いたのは、今回の問題が起こるまでは、光り続けていると思っていたからです。
その問題とは…

 致智望さんから頂いたCD(アルゼンチンタンゴ集 6巻)はいままで自宅のオーディオセット(実はミニコンポ)で聞いていました。なかなか良いので、スマホのアプリに入れようとしたわけです。

 以前はウォークマン(今はポータブルオーディオプレーヤーという)で聞いていましたが、5年前にスマホにしてから、アプリを入れて(標準でも入っている)PCから音源を転送させて使って来ました。今はMP3(ほかにもあるし、同じ3でも分解能が高いモノもある)がデファクトですから便利です。

 数年前のSONYの提供していたオーディオ・ヴィデオのメディアプレーヤーソフト はX-アプリといって大変な優れモノでしたので、これを使ってパソコンに取り込もうとしたら、動かない。調べてみたら、既にこれは廃止されていて、「Sony | Music Center for PC」が登場していました。早速これをインストールして取り込みました。ここまでの操作はX―アプリとほぼ同じです。

 スマホに送ろうとしましたが「転送」機能が働きません。まさかと思いましたが、ググってみたところ、SONYの公式サポートサイトでは、それを素直に認めていて「機器をつないでドラッグ&ドロップ」でやればできる、と。まあ、これが今やOSではMSもアップルもAndroidも常識ですから、成る程!と喜んだのもつかの間、これを操作してもスマホへ転送することができません!!!!

 これで気が付いたのですが、NET上ではこの問題に関して不満の山ですが、SONYは解決策をいまだに提供してくれていません。因みに私のスマホは、SONYのXperia SO-04Jという昨年発売の高級機種です(泣)。

(恵比寿っさん 2018年3月14日)

 遅まきながら本番「憲法9条」

 国会議員諸氏は本気で憲法9条を“勉強”しているのだろうか。安倍首相の「加憲案」は友党公明党に気を使って“飲みやすいように”考えた改憲案だと言われるが、その公明党の北側一雄中央幹事会長は、3月はじめの記者会見で、「自民党が提案し〈中略〉憲法審査会で議論しましょう、となれば党としても勉強しなければならない」と述べ、「まだ先は長い。すぐにどうこうという話にはならない」と語ったという。もちろん改憲を急ぐことはないが、国会の先生方には早急に勉強してもらいたい。

 遅まきながら3月に入り、ようやく国会で憲法9条論議が本格化するようだ。まずは自民党改憲本部会合で改憲に向けて意見集約が始まった。ところが、安倍首相が押し切ると見られていた「加憲案」に疑問の声が出はじめて、ようやく憲法9条2項の削除論が強まっていると伝えられる。何を今さらと言いたいほどのボケぶりだが、悪い方向ではない。この点こそ真面目に論議すべきポイントだ。

 今のところ、安倍首相はじめ政府・与党の主流は、戦争放棄をうたう9条1項、2項をそのまま残すことで平和維持の姿勢を明らかにしながら、その範囲内であらたに設ける3項で自衛隊の存在を容認し、合憲性を明確化しようとしている。現在の「政府解釈」では、自衛隊は「自衛のための必要最小限度の実力組織」であり、2項が禁じる「戦力」には当たらないとされる。しかし、野党だけでなく自民党内にも、世界有数の能力を持つ自衛隊が戦力ではないというのは詭弁だとする声が強まっている。石破茂元幹事長は一貫して“安倍首相案”の矛盾を突いている

 私も以前から、一市民としてこの憲法9条の矛盾を指摘してきた。自衛隊の持っている世界に誇る「戦う力」、これから導入する「イージスアショア」も「F35Bステルス戦闘機」も「戦力」ではなく自衛のための「実力」だとする政府の見解は、我々のように憲法に強いわけではない一般市民にとっても、常識を外れた“強弁”に聞こえ、奇異に感じられるのは至極当然ではないか。

 憲法学界では9割がたの憲法学者が自衛隊違憲論を取る。その点では私も違憲論を取る。違憲論の先が2つに分かれる。違憲だから平和憲法を守れという道と、違憲だから妥当な「戦力」を認める憲法改正を行えという道である。具体的には、前者の、平和憲法を守れという道は、限りなく丸裸の平和国家を目指すことになる。後者の、「戦力」を認める道は、現行の9条2項を棄てて正当な戦力保持を明らかにする改憲への道である。前者はすでに“非現実的”な道である。取るべきは後者の道だろう。ただし「正当な戦力」を「自衛権に基づく戦力」などというと、集団的自衛権の拡大解釈につながるとして、安保関連法制定時の議論を蒸し返すことになる。自衛権は“論外”の“常識”だ。

 遡れば、戦後、現憲法の草創に携わった首相吉田茂は憲法解釈で迷走を繰り返した。おもしろいのは当時、共産党の野坂参三議員が「自衛のための正しい戦争」論を展開し、これに吉田が「正当防衛権を認めると戦争を誘発する」と反論したことだ(原彬久著「吉田茂」)。それ以来、攻守ところを変えて70年以上も正当防衛、自衛権を巡る与野党の9条解釈が迷走してきたのである。2項を残すと将来もこの迷走を続けることになる。そろそろすっきりと決着をつけるべきではないか。

安倍首相も国会議員の先生方も大いに勉強して意見集約を図り、友党の顔色を伺うような半端な改憲案ではなく、国民にとってすっきりと分かる具体的な条文案を示し、その後ゆっくりと国民の理解と判断を待つべきではないか。

(山勘 2018年3月18日)

 人間とは、生きるとは、必要な未来哲学

 新年早々、知り合いの老婦人が、家の2階から階段を転げ落ちた。打撲傷は負ったが命に別状はなかったと言い、「今年はついている」と喜んでいるのだから、ものは考えようである。身内の、中年の主婦が、これも新年早々脳血栓で倒れた。治療がうまくいき、先ごろリハビリ病院を退院した。その夜の刺身、「マグロがおいしかった」と言うのが電話での第一声だった。正月に、親友の妻が入院中の病院で亡くなった。その日も妻を見舞い、明日も来るからねと手を振って別れた後、亡くなった。誤嚥性肺炎だった。「長く苦しまなくてよかったね」と電話で私が言ったら、愛妻家の親友は即座に「苦しんだ」と反発した。うかつにものは言えない。それにしても人間とは、愛しいものだ。

 平成の世もあっという間に30年。天皇のご退位と改元が近い。私の父は、岩手の片田舎で名も無く貧しく生きて、昭和の終わりに没したが、生前よく「天皇陛下三代に仕えた」と言っていた。それを笑っていた私も馬齢を重ねて、天皇陛下三代の御代を(仕えはしなかったが)生きることになりそうだ。

 しかし平成の終盤はあまり明るくない。安倍首相は、アベノミクスの効果で経済、雇用、株価が好調だと自慢するが、経済は実感を伴わない“無気力な安定”、増えた雇用は不正規の“不安定雇用”、株価も、この2月の大幅暴落で見るように、実体経済を反映しない“投機的な変動”だ。

 この平成30年間では、経済も、有効求人倍率も、株価も、変動幅の小さいほぼ横ばいの推移である。大幅に増えたのは不正規雇用であり、生涯未婚を通す男女であり、子供の貧困率であり、孤独死・孤立死である。天下の“よだくり老人”西部邁先生の自裁死は“厭世”ではなかろうが、生きにくい世の中になってきているのは確かである。

 さてポスト平成の世の中はどうなるのか。これからも生きにくい世の中が続きそうだが、それにもかかわらず、医療をはじめ科学技術の進歩によって人間の平均寿命は大幅に伸びている。将来はさらに遺伝子の組み換えなどによって寿命はさらに伸びるだろう。

 科学技術は、不老長寿の実現に向かって進歩するが、はたしてその世界は幸せな世界なのだろうか。先の西部先生は、世間に自分が必要とされなくなったら生きる意味がないと考えていたらしい。凡夫の私にはそんな高等な自負心などはないが、もしも不老長寿の世界が実現したら、生きる意味が分からなくなってしまうだろうということは考えられる。人生と時間に限界がなければ、限られた時間の中で何かを達成したいという目的意識や生きる欲求が希薄になり、何事も急ぐ必要がなくなる。「命短し恋せよ乙女」という歌なども意味がなくなる。生きることも死ぬこともあまり考える必要がなくなるのだから哲学も、死と向き合う宗教も必要なくなる。

 仏教では、人生は「四苦八苦」だと教える。「苦」とは、「苦しみ」ではなく、「思うようにならない」ことで、その根本的な苦が「生老病死(しょうろうびょうし)」の四苦であり、これに次の四苦を足して四苦「八苦」となる。つまり、愛する者と死別する「愛別離苦(あいべつりく)」、恨んだり憎んだりする者と合わなければならない「怨憎会苦(おんぞうえく)」、欲しいものが手に入らない「求不得苦(ぐふとくく)」、体や心(五蘊)が意のままにならない「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」の4つである。しかしこの四苦八苦の教えも、科学の発達で不老長寿の人間界になると、ほとんど「苦」にする必要がなくなる。

 だからどうする。聞かれても答えは見つからない。名前を失念したが名のある識者が、将来人間に取って代わるともいわれるAI(人工知能)やロボットについて、彼ら?と人間の違いは「本能」の有無だと喝破した。本能の最たるものは食欲と性欲だが、人間の本能はそれだけではない。いろいろな本能や煩悩を抱える愛しくも哀しい人間がどう生きていけばいいのか。不老長寿の世界に生きる「未来の人間とは、生きるとは」どういうことか、新しい哲学が必要になってきたらしい。

(山勘 2018年2月18日)

要するに、分かる「憲法9条」に

 昨年は暮近くになって、憲法9条に関する“気まぐれエッセー”を立て続けに3本書いた。それで憲法素人談義はしばらくやめておこうと思っていたのだが、政界の“蒟蒻問答”を聞いているうちにまた続きを書く気になった。肝心の安倍首相は、この国会で、(自衛隊員に対して)「憲法違反かもしれないが、何かあれば命を張ってくれ」とは言えないとして、憲法9条に自衛隊の存在を明記したいというかねてからの持論を繰り返している。

 たしかに安倍首相が言うとおり、国防を担う自衛隊員に、「何かあれば命を張ってくれ」と言えないとすれば大問題だ。しかし、根源的には、安倍首相の発言の前段に言う(自衛隊は)「憲法違反かもしれないが」という発言のほうが大問題ではないか。
 自衛隊が「憲法違反かも知れない」なら、それを論議するのがスジだろう。大方の憲法学者が言うように、憲法9条や自衛隊が違憲だというなら「合憲化」するために憲法を改正する。それが自衛隊の存立理由を明文化しようとする安倍首相の主張でなければ、おかしいのではないか。

 「憲法違反かもしれない」という問題の核心は、言うまでもなく、9条2項が掲げる「戦力の不保持」である。しかし、いまわが国は、北朝鮮、中国などがもたらすただならぬ国際緊張の中で新兵器の導入を急いでいる。敵基地の攻撃も可能にするミサイル迎撃システム「イージス・アショア」や「F35Bステルス戦闘機」などの新兵器も、「自衛のための戦力」だから憲法に言う「戦力」ではないと言う。この理屈で常識的な国民の納得を得るのは容易ではないだろう。

 この苦し紛れの理屈を70年以上も重ねてきたのがわが国の憲法9条である。憲法9条の“病根”は深い。戦後、現憲法の草創に携わった首相吉田茂が繰り広げた“変節”ぶりが興味深い。「吉田茂-尊皇の政治家- 原彬久著 岩波新書」によると、憲法9条の政府案が上程されたばかりの衆議院で、首相の吉田は、共産党の野坂参三議員の、自衛のための「正しい戦争」論に対して、「国家正当防衛権」を認めると「戦争を誘発する」から、「正当防衛権」は「有害」であると断言した。しかし吉田は、間もなくそこから“真逆”の方向、いわゆる「解釈改憲」にシフトするのである。

 つまり、同じ吉田(第3次吉田内閣)が、「武力によらざる自衛権」の容認に舵を切り(昭和24年11月)、「自衛権の発動としての戦争」を承認し(昭和26年10月)、更には「自衛手段の戦力」を肯定(昭和27年3月)したと思ったら、一転、それを否定する(昭和27年3月)のである。

 さらに昭和28年11月、吉田は、近い将来つくられる自衛隊を「軍隊」と呼んでいいと明言し、しかもそれは「戦力にいたらざる軍隊」であるがゆえに憲法の許容範囲内である、と述べている。いわゆる「自衛隊合憲論」である。大要、以上のような吉田の“変節”“迷走”ぶりが同書に書かれている。

 以来今日まで、実に70年以上も憲法9条解釈は吉田流の“迷走”を繰り返しているのである。いわば憲法9条の“病根”は宿痾(しゅくあ=長年の病気、持病)である。この病根を放っておいて、自衛隊の“健康”に太鼓判を押そうという安倍首相案には問題がある。自衛隊は“健康でない”と国民が審判を下したらどうなるか。安倍首相は、今国会で、自衛隊明記案がたとえ国民投票で否決されても自衛隊は合憲だという政府の立場は変わらないと言っている。無茶苦茶な言い分ではないか。

 安倍首相の“加憲”案では、どこまでも9条2項の「戦力不保持」が問題となり続ける。それを避けるためには、「自衛のための戦力保持」を正当化するという選択肢を挙げてまともに論議すべきではないか。先にも書いたが、国民の“国語力レベル”で分かる、国民的な憲法論議を進めるべきだ。要するに、国民に分かる明快な「憲法9条」にしなければ、また将来に禍根を残すだろう。

(山勘 2018年2月18日)

 
〈人間〉と〈屁〉と〈声〉の話

 尾籠な話は好まないが?たまたま同じ日付の2紙で〈屁〉の話を読まされた。読売新聞とわが郷里の「岩手日報」紙、どちらも2月23日付紙面である。

 読売は「編集手帳」欄、映画「男はつらいよ」の寅さんのセリフとして、「お前と俺とは別の人間なんだぞ。早い話が、俺がイモを食って、お前が屁をするか?」というセリフを引用している。「別々の体に一つの心なんて(略)、きれいごとを言うんじゃないよと言いたいのである」と編集子は解説する。考えてみれば確かに〈一心同体〉などという言葉には“嘘っぽさ”がつきまとう。

 岩手日報のほうは、俳人の宇多喜代子さんが、今月20日に98歳で亡くなった俳句の巨人 金子兜太さんを悼む「いつも時代の真ん中に」と題する一文を寄せている。その中で宇多さんは、金子さんの「時折まくしたてる糞尿談、放屁談には閉口させられた」というエピソードを紹介している。だが、「糞尿に屁は平和の象徴である」と金子さんに言われると、宇多さんは、「ついついそうかもしれないと思ってしまう」のである。

 うだつの上がらない?日銀マンだった金子さんのたどり着いた「社会的主体を表現する俳句」は易しくない。代表作の一句として知られる〈梅咲いて庭中に蒼鮫が来ている〉について、金子さんは先の大戦で多くの戦友を失ったトラック島での原体験を語っているが、それを知らなければ句の意味を理解するのはむずかしい。この句について宇多さんは、「梅が咲いている庭が太平洋の波間に果てた兵士たちの屍にむらがる鮫の海となってひろがってゆくんだ」と、晩年の金子兜太がつぶやくように言ったと、同じ一文に書いている。これでやっと悲惨な海のイメージが広がっていく。

 肝心の?「屁」であるが、日本語辞典によると、「小腸で消化吸収されなかった内容が、大腸内の細菌によって分解されて発生したガスの放出」である。「おなら、ガスとも言う」。用例に「屁とも思わぬ」(見下して眼中に置かない。気にしない)「屁を放(ひ)って尻窄(すぼ)め」(過ちをしでかした後で取り繕おうとすること)などとある。ちなみに、辞典には書いていないが、広義の〈屁〉の中で狭義の〈おなら〉は“音を鳴らす”屁だという説もある。

 辞典では、屁の素のガスは大腸内で発生するとしているが、屁の素の半分近くは口から呑み込んだ空気だという。呑み込む空気量は人によって差がある。空気の吸い込みが下手な人?は〈オンブレス〉などというカプセルの気管支拡張剤を服用したり、酸素吸入器を使ったりする。おならが出なくてお腹の腫れで苦しむ人も少なくない。こちらは〈ガスコン〉などという錠剤を服用して腹中のガスを減少させたりする。私の身内や知人にもこういう“不器用”な人たちがいる。そういう人に私は、空気の吸入とおならの排出だけは公共料金がかからないのだから遠慮なくやれ、と冗談を言って応援するが、苦しんでいる当人にすれば笑いごとではない。

 俗に〈モノ言わざるは腹ふくるる(膨れる)ワザなり〉などと言う。腹中のガスだけでなく、言いたいことを言わずに腹中に抱え込んでも腹が膨れる思いをする。“おなら”も“言い分”も、どちらもうまく“放出”しなければ腹が膨れる。現代は、ネット空間などで、時には顔を隠して勝手なネツを“放出”する時代である。だから、本当はここで、生身の人間の発する、〈屁〉にも勝る〈声〉、主体的な発言の重要性についてもう少し言いたかったのだが、紙幅が尽きてしまった。

(山勘 2018年3月18日)

(ネットで「中高年クラブばばんG」を覗いてみてください)