例会報告
第62回「ノホホンの会」報告

2016年12月20日(火)午後3時~午後5時(会場:三鷹SOHOパイロットオフィス会議室、参加者:狸吉、致智望、山勘、恵比寿っさん、ジョンレノ・ホツマ、本屋学問)


 今年最後の例会は、全員が元気に出席でした。今月もユーロ危機、アメリカの次期大統領トランプの動向、中国経済の危うさと、不安定な状態が続く国際社会問題を反映した書感、エッセイが続きます。しばらくは目を離せないテーマかもしれません。
「クモの糸」談義で盛り上がったのは意外でした。山形に「スパイバー」というベンチャー企業もあるようで、新しい繊維として注目されているようです。

 例会後はご夫人方も加わわり、「季寄せ 柏や」での恒例の忘年会になりました。酒肴も酒も仕上げの蕎麦も格別で、毎度ながら堪能しました。いつもながら恵比寿っさんに感謝です。


(今月の書感)

「ケトン体が人類を救う 糖質制限でなぜ健康になるのか」(恵比寿っさん)/「満足の文化」(狸吉)/「ユーロ恐慌─欧州壊滅と日本」(致智望)/「クモの糸でバイオリン」(ジョンレノ・ホツマ)/「祖父母に・・孫の真心を送る パソコン手習い」(ジョンレノ・ホツマ)/「百年の誤読」(本屋学問)/「元気な日本論」(山勘)


(今月のネットエッセイ)

「どうなる“じゃんけん経済”の行方」(山勘)/「要注意!トランプ流『ペテンの技法』」(山勘)

 (事務局)


 書 感

ケトン体が人類を救う 糖質制限でなぜ健康になるのか/宗田哲男(光文社新書 2015年11月20日初版一刷発行 本体920円)


著者紹介

1947年千葉県生まれ。

65年北海道大学理学部地質学鉱物学科入学。卒業後は国際航業に入社。

地質調査などに従事。その後意志を志し、73年帝京大学医学部入学。

卒業後は小豆沢病院、立川相互病院勤務を経て、千葉県市原市に宗田マタニティクリニック開院。


著書に『楽しくなるお産-自然分娩・母子同室のすすめ』(桐書房)、強調に『諦めないで不妊症』(ナツメ社)の他、

「母児同室論」(『周産期医学』東京医学社)、「さりげない医療監視で満足の行く自然分娩を!」(『助産婦雑誌』医学書院)など論文多数。ビデオ『弟たちの誕生――ある家族の立会出産』(わかば社)も制作。

近年はFacebookグループ「糖質制限」共同代表、「ケトン村」村長。

糖尿病妊娠、妊娠糖尿病の糖質制限による管理で成果を上げている。


はじめに

序章

私が糖尿病になったころ

妊婦の糖尿病に、はじめての糖質制限

ケトン体物語・前編――学会での非難から、新発見へ

ケトン体物語・中編――さらに勇気ある妊婦の登場

ケトン体物語・後編――こんなにすごい「ケトン体エンジン」

栄養学の常識は、じつは間違っている!

妊娠糖尿病とはいったい何か――妊娠期の人体が教えてくれること

さらば、白米幻想!

学会と言うおかしな世界――糖質制限批判を考える

「たくましき妊婦たち」と「ケトン体」が日本を救う!《体験談》

最終章  ケトン体が造る未来 

おわりに


1.本書の内容とは関係ないですが、読みながら感じたのは、医学は随分と保守的だということです。

 ここまで明らかになっているのに、医学界では本書の内容を検証したり治療方法を進化させたりしないのは、医学界の怠慢とも言えます。


2.2014年5月投稿の「炭水化物が人類を滅ぼす 糖質制限からみた生命の科学」と整合しています。

ケトン体:アセトン、アセト酢酸、β‐ヒドロキシ酪酸の総和(総ケトン体)の通称


序章で「本書で伝えたいことの予めのまとめ」があり、現在の栄養学で間違っている6つの説(神話)があると指摘している。ヘタな私の書感よりもこのことが重要に思いますので、要旨を引用します。


1.カロリー神話
 血糖値とカロリーには何の関係もないが、カロリー制限で糖尿病を治そうとする矛盾。無意味で却って悪化。カロリーでなく、糖質量で食事の管理をすれば、薬を使わなくても血糖値を管理できる。


2.バランス神話
 「バランスよく」と言って、じつは炭水化物を60%も摂らせる(タンパク質・脂肪は各20%)。学会も認めるように根拠がないが、この比率は金科玉条となってすべてを拘束している。


3.コレステロール神話
 必須栄養素を完全に満たすには、肉や卵やチーズは最も簡単な食品。しかし、肉や脂肪は「コレストロールが上がるから食べすぎないように」と教えられる。これはついに公式に否定(日本人の食事摂取基準:2015年版厚労省――食事からのコレストロールの摂取抑制目標値撤廃)されたが、殆どの医師や栄養士は、いまだにこれを理解していない。


4.脂肪悪玉説(肉・動物性食品悪玉説)と

5.炭水化物善玉説(野菜・植物性食品善玉説)
 肥満は脂肪が原因、これは殆どの人がそう信じているが、これこそ間違いであって、肥満は糖質過剰摂取で起こる。


6.ケトン体危険説
 ケトン体は危険物質であるというのは、20年前の知識で、もはや前世紀の遺物である。今やケトン体は胎児、新生児のエネルギー源であって、健康とアンチエイジングのエネルギー源である。


これらの間違いが相互補完して、炭水化物・糖質が中心の低カロリー食が推進され、肥満・糖尿病・成人病・小児糖尿病を増やして、それを膨大な薬剤で治療しようという馬鹿げた医療が進行中。間違いに殆どの医師は気が付いていない。多くの医学会がガイドラインで治療内容を拘束しているため、自由に考える医師集団は壊滅。間違いの典型例が妊娠糖尿病(妊婦の≒12%)で妊娠中は耐糖能が下がるから起こる。なのに医師は胎児にはブドウ糖が必要、と糖質を摂取させる。妊娠糖尿病はインスリンが十分に分泌されているのに効かないのだが、医師はインスリンを使う。糖質を摂らせて血糖値を上げ、インスリンを使うという管理不能の矛盾が行われている。


 糖質を減らせばすべてが解決するが、そうするとケトン体が上昇するので大騒ぎになる。

じつは「胎児は高ケトン環境にある」ことが明らかになっていて、ケトン体が危険物質でないこと、胎児は糖質を必要としていないことが示され、解決の道が開かれている。即ち、胎児は脂肪をエネルギー源にしている。なので、妊婦は糖質ではなく、脂肪とタンパク質の食事を中心にすればすべては解決する。


補足:人には

 糖代謝(ブドウ糖→グリコーゲン)エンジン と

 ケトン体代謝(脂肪酸→ケトン体)エンジン  がある。

              これまでは①人体の基本エンジンとされていた。

グリコーゲンは体内で200~300grなので1000kcalくらいしか持ち合わせがないので、補給が無ければ12時間くらいでなくなる。


 貯蔵脂肪は多いので(60㎏の人の体脂肪率20%で12㎏)108000kcalもある。

1日に2000kcalを消費したとしても50日は持つ。


 渡り鳥は脂肪をエネルギーにしてケトン体エンジンを使うからあれだけの距離を飛べる。

は激しい運動の時や糖質を摂っているときのエンジンで、赤血球だけがブドウ糖のみを使える細胞。

脂肪酸やケトン体は、細胞内のミトコンドリアで代謝されるが、赤血球にはミトコンドリアが無いのでブドウ糖しか使えない。


脂肪酸は分子量が大きいので、血液脳関門を通過できないが、ケトン体は通過可能で、脳神経系はブドウ糖よりもケトン体の方が親和性が高く、保護的な作用があることがわかって来た。


(恵比寿っさん 2016年12月6日)

満足の文化/J・K・ガルブレイス著・中村達也訳 (ちくま学芸文庫 2014年本体1,000円)


著者は1908カナダ生まれ(後アメリカに帰化)の「異端の経済学者」。ハーバード大教授、アメリカ経済学会会長などを務めた。「異端」と評されるだけあって、人があまり触れたがらない資本主義の暗部をざっくり切り開いてみせる。


本書のような深い内容の本を、経済学の素人が読むのは誤解もあろうが、ともかく、感じたことを以下に記す。


目次を一瞥するとほぼ本の内容が推察できるが、3)の下層階級…にまず目が留まる。資本主義社会は少数の富豪、比較的よい暮らしを享受している中間層と下層階級から成り立っている。そして額に汗して働く下層階級は、その上の階層を支えるために必要不可欠な存在なのだ。


ガルプレイスは欧米の近代資本主義社会について考察しているが、それに似た社会構造は奈良・平安の昔から、江戸時代を経て現代に至るまでわが国にも存在していなかっただろうか?長い歴史を通し、実際に社会の富を産み出す農家や匠は実質的に社会の底辺に組み込まれ、それを貴族・武士・商人などが支配していた。この基本構造は明治維新以降も変わらず、少数の金持ちを政治家・役人・サラリーマンが支え、そのまた下に農家や職工が押し込められている。下層階級がその境遇に満足していないのは、子供たちが親の職業を継ぎたがらないのを見れば明白である。


上記の社会構造は上位の階層を養える大きさの、安定した下層階級をどうやって保つかが為政者の課題である。江戸時代までは武士階級が、一般人の移動を制限し、狭い村社会に分離統制することで実現した。明治維新で農家から工場に働きに出ても、仕事が無くなれば村に戻りバランスを回復した。高度成長時代の到来で農村から都会に大規模な人口流出が始まると、下層階級の人口減がにわかに顕在化した。都会で工員として働く労働者の子供たちは、親より楽な暮らしを求めて上位層に脱出して行く。下層階級の補充のためにパート社員の採用、工場の地方分散も一時流行したが、次第に源泉も涸れて行く。


欧米と異なり、日本人の大多数は移民に拒否反応に示すので、抜け道として考えたのが「外国人研修制度」であろう。受け入れ先は実習生を低賃金労働者として歓迎し、自社の費用で実習教育をする気などない。


次第に減少する貧民層を補充する流れが止まると、社会は崩落し大混乱が生じると本書は警告する。貧富の差を減らす有効な手段は累進課税だが、これは上位層の反対で実行できない。移民反対の声が高まる中、何かが変わる時期に来たようだ。日本は得意のロボット技術で新しい局面に対処できるのであろうか?読後も深く考えさせられる著作である。 

(狸吉 2016年12月9日)

ユーロ恐慌─欧州壊滅と日本/副島隆彦(祥伝社  本体1,600円)

                                 

ユーロの崩壊が話題になっている折の「ユーロ恐慌」の書である。今世界でおこりつつあると危惧されている資本主義の存続に付いて記された書である。やがて早い時期に世界経済の崩壊が始まることになるだろう、それはユーロの仕組からくる矛盾がトリガーとなって始まると言う。


黒田日銀のマイナス金利政策は、戦国時代の焦土作戦であり、ドイツがロシアを攻めたときもロシアは焦土作戦をとった。それと同じ様な行動が、ヘッジファンドから日本国債暴落の仕掛けを撃退するのと同じ手法だと言う。デフレ不況の改善のないままに国民に耐乏生活を強いて、防御するところが同じと言う。


世界経済の覇者たる米国の経済は酷いもので、世界の警察を担う状況では無いのは当然と言う。米国ドルの威信を保つために金の空売りまでする、また、日本の持つ米国債は正確に報道されていない、何故か、日本国内の赤字国債と同額程度あると言われている。中国もそれに近い米国債を持っているはずで、米国との関係などもその点を考えると、中国の強気な姿勢もそれなりに理解できる行動と言える。しかし、日本も中国も米国の経済なくして自国の経済が成り立たない事情は同じで、微妙なバランスで成り立っているのが実態、言ってみるとコックリさんのようなものだ。


その様な状況のなかでトランプ氏がクリントン氏を破って大統領候補に選ばれたのは、著者から考えると至極当然で、クリントン有利との報道は有り得ないと選挙前から公然と言っていた。クリントン氏の国務長官時代のメールアドレス利用事件は、生易しいものでは無く、クリントン氏敗北の致命的原因でもあったと言う。ビンラディン殺害事件や中東ベンガジンでの米国大使の殺害事件時にクリントン氏は国務長官を務めており、現場への直接指示の手段としてアドレスを使い分けていた、米国議会でもヒラリーやクリス・スティーブンの凶暴な政策が非難決議された事実がある。詳しくは「トランプ大統領とアメリカの真実」、「ヒラリーを逮捕、投獄せよ」などの書が日本でも発売されているのでそれを読めば至極当然に理解出来ると言う。


世界経済の基軸が、米国、中国、日本そしてユーロ圏と考えるなら、異質の中国の存在は不気味であることに変わりないとして、世界経済の破綻がユーロ破綻のトリガーから始まると言うのが著者の弁である。


ユーロ圏の銀行間決済の仕組みとして、TARGET2と言う仕組みが有って、異なる国の企業同士の決済は自国の中央銀行との間で決済を行い、国と国の間は国の中央銀行同士で行うようになっている。このシステムでは、実際におカネの移動は無いと言う。その結果ドイツに債権が集まり、イタリアなどに債務が集まると言う。ドイツが好調で金持ちと言う事になるが実態は債権であって債務国が立派であればと言う事に過ぎない。だから、今回米国から不良債権の販売で多額の罰金支払いを要求されても実際に支払う「かね」はドイツに無いのだそうだ。米国も自国の財政状況が苦しく、取り立てが厳しくなる、これが直近の「ユーロ恐慌」のトリガーとなる。しかしこのドイツ銀行の問題は、ごく一部のことで、もっと大きな問題がこのTARGET2システムで見えなくなっている、国ごとの事情による財政赤字の処置には、とりあえずの手段として赤字国債の発行なのだが、これが国の違うユーロ圏にとって大きな矛盾を孕んでいると言う。


米国のFRBイエレンは、米国ドルの威信に拘る結果、失業率を5%などと大嘘をつく。実態は20%あるだろう、トランプ氏は41%と言っている。トランプ氏の言う経済政策の主力は強いドルを目指さないであり、3つの政策を言っている、減税を実行する、金融緩和する、ドル安政策をとるである。だからいまのようなFRBは不要とまで言っている。その上で、金融バクチ禁止法を復活させると言っている。それは、銀行業務と投資業務は、はっきり分離させるグラス=スティガル法を導入すると言うもので、もう金融バクチをやるな、大暴発を起こすと国民に大きな迷惑をかけると言うものである。これを見る限りでもトランプ氏の政策は異質に見えるが、良くも悪くもグローバルスタンダードからり逸脱、この発想から革新的なまともさも見えてくるのである。


資源の無い我が国、堕落した若い世代、万年国家予算に頼る贅沢生活習慣、日本円の為替は150円を超えるだろう、そしてやがて円は紙くずになる。資産防衛には優良株が良い、企業におけるキャッシュは人間の血液に相当する、国は企業活動の継続を守るから企業の資金は安全を保障される、直近のインドの紙幣封鎖のような政策がとられたときでも安全である。


(智知望 2016年12月10日)

 クモの糸でバイオリン/大崎茂芳(岩波科学ライブラリー 本体1,200円)


以前、「クモの糸~」がTVか何かで話題になったような記憶はあったものの、細いナイロンと比べられるものかどうかもわからず、クモの糸をどうやって採取するのか、何を実現不可能なことをやっているのか、奇人変人か、常識ではありえないことだと気にもしていませんでした。

今回、図書館の新刊リストに本書を見つけ、自分の思い込みであったことを知り、一気に読み切ってしまいました。

著者は40年に亘りクモ一筋!一言で言えば、ここまでやるか!まさに何が得られるかもわからない目的に向かって食いついていけば、結果は向こうからやってくる!という表現がこの著者のためにあるように思いました。著者に拍手喝采です。古代の言葉(ホツマ用語)で言えばヨロトシ!(万歳)です。

著者は、大学院で粘着紙の研究中に総説としてまとめる過程で、ふとクモの巣が頭に浮かび、クモの糸の物理化学的特性を調べた研究はほとんどないことを知り、未開拓分野に魅力を感じたのが発端とあります。

屋外でクモを観察し生態を理解しようという気になったり、クモから糸を取り出す方法を考え付いたり、苦労の末、実験に使える糸が得られ、物理化学的な性質を調べて、クモの糸を詳しく調べ上げていくのには、著者の以前の経歴が向かわせたのに他ならない。本業は粘着紙の研究からマイクロ波という電磁波を用いた分子や繊維の配向性の研究へシフトしていたことが、クモの糸に結びついたというのは何か著者にとって運命的であったように思えます。クモの方から呼びかけてきたとしか思えないからです。

具体的には、クモには、7種類の糸があり、電子顕微鏡で糸によって様子が違うことを知り、縦糸は4本の細い繊維からなり、横糸は2本で粘着球という粘着剤が間隔を置いて配置されている。牽引糸というクモにとって命綱で、クモが自ら降りてくるときに出す糸が、本実験の糸になります。

この牽引糸をどうやってクモに出させるか、クモとのコミュニケーションや糸を出してもらうための環境づくりなどいろいろな苦労があったし、何本も束ねなければならないため、物理的な量のクモの糸を集めるのも大変なことであったと思います。

牽引糸の弾性限界強度はクモの大きさに関係なく体重の約2倍であることを知り、電子顕微鏡で2本の細い繊維から成り立っている安全則を確認、たとえ1本が切れても支えられる糸になっていることに感心。

大量に集めたコガネグモの糸を使って糸を束ねて人を吊る実験を何回も失敗を重ねながらも100kg以上の強度を得ることに成功してきていた。

その後、クモの糸は力学的に強く、さらに弾性や柔軟性もあることがわかってきて、この特徴はバイオリンの弦にも向いていると考えるに至っていた。

周りの出会った人たちも、著者の奇想天外な実験に応援する姿がありありとうかがえます。著者の熱意から環境の良さに恵まれ、クモの糸をストラディバリウスに取り付けて奏でられ、世界的な反響を巻き起こしていたことを本書によって知りました。

(ジョンレノ・ホツマ 2016年12月13日)

祖父母に・・孫の真心を送る パソコン手習い/永井竜造(エコ・ベンチャー開発機構 著 2016年10月発行 本体2750円)


今まで、色々なパソコンの入門書を見てきましたが、本書は今の私にぴったりでした。著者は私より年長で76歳を迎えて本書を執筆したとあり、見て楽しくなる入門書です。

現在、近くのゆうゆう館(昔の敬老会館)で、私より多分年配の方の方が多いと思う生徒さんに、月に一回パソコン教室の講師をさせていただいています。


ワード、エクセル、メール、インターネットなど通り一遍のものを繰り返ししてきましたが、一目、本書を見て、求めていた入門書と飛びつきました。

ある程度、分かる方は、何がしたいと希望をおっしゃってくださいますが、何がしたいのかわからない、何を聞けばよいのかわからない方がおられるとき、自分なりに今までの経験の中からわかる範囲でテキストを作ってきました。


今までのパソコンの本の中にも、丁寧にきめ細かく教えてくれるものも多々ありましたが、何を聞けばよいかわからない人のために、どういう風に接していけば良いか、相手の立場に立ってこれほど取っつき易く考えられていることに脱帽しました。しかも、必要なことは、一通り網羅しており、上級レベルまでの項目にふれているのも飽きの来ない内容になっていることには感心しました。


著者は「昔のような家族に戻りたい」という願望の下、

一つは、祖父母とその家族のコミュニケーションの復活のため。

二つ目は、初めてパソコンの手習いをする子供たちへ。

三つ目は、パソコンを覚えて教える必要のある方へ。

それぞれの立場の人が楽しく読んで使ってもらいたいという趣旨で書かれています。


中身は、三種類の手習いマークに色別に表示されており、

見るだけで・・絵本の楽しみ・・

「祖父母に教えてください」は、(四つ葉マーク)目次は赤色、


読むだけで・・微笑む、おもしろさ・・

「初心者が覚えたい」は(緑マーク)、目次は緑色「小中学生、初心者の方は覚えてください」


覚えて、うれしい・・役立つ手引書・・

「もう一歩がんばろうー会」のパソコン教科書は、(握手マーク) 目次は青色と色分けされています。


目次を見て、第一章の最初の一歩から始まり、インターネットの活用、ブログ、オークション参加、ホームページの作成の取り組み方までの手引きが備わっていることにも感心しました。


パソコンの設定

パソコンは難しい・分からない・怖い・などと思っていませんか。というタイトルから始まり、例えとして、運転できる人にとっては当たり前のことを、自動車の運転手順を列記するとかなりの手順になることを分かりやすく比較しており、なるほどと思った次第です。


インターネットへの接続については、一人で悩まないで他人任せでOK。電話回線の会社やケーブルテレビ会社、さらにはプロバイダーなどサービスを利用して接続しましょう!という説明には目から鱗です。


パソコンの操作

まずは電源ボタンを探しましょう。見つけたら怖がらないで押してみましょう!と、取っつき易い表現で始まっていることも、親しみを感じます。


以下 

キーボード

ワードの操作 1

データとアプリケーション

ファイル操作

ワードの操作  2

エクセル

記録媒体

メール

 画像

 インターネット

 フリーソフト

 ブログ

 オークション参加

 簡単なホームページの作成

とあり、「入門」というタイトルではなく、「手引き」という表現を使ったことに著者のこだわりをあちこちで感じました。 

唯一、残念なのは装丁が立派過ぎて、重たくて、持ち運びや閲覧に無理があるとの指摘を受けました。もっと軽ければ良いのだが・・・過ぎたるは及ばざるが如し! 



(ジョンレノ・ホツマ 2016年12月18日)

百年の誤読/岡野宏文・豊崎由美(ぴあ 初版発行2004年11月5日 本体1,600円


コロンビアのノーベル賞作家、ガルシア・マルケスの代表作に「百年の孤独」という小説がある。また、そのタイトルを酒の名前にして評判の熟成麦焼酎「百年の孤独」も、酒通の間では有名である。

本書がそのどちらからアイデアを借りたのかはわからないが、内容的には100年前の徳富蘆花の『不如帰』から、付録の2000~2004年までの「百年の後読」(『バカの壁』や『世界の中心で、愛を叫ぶ』など)と、古今東西の古典、名著、そして“目を覆うばかりのひどいベストセラー”(著者らの表現)まで、「20世紀のベストセラーを語り尽くそう」と書籍情報誌「ダ・ヴィンチ」に対談形式で取り上げた100余冊の書評をまとめたものである。

酒好きの読者なら本書の表紙の装丁を見ればすぐわかるように、焼酎のパッケージ、ラベルとほとんど同じカラー、ロゴを使っている点も、単なる語呂合わせやパロディを超えたセンスではある。さらに「誤読」としているところは、“王様は裸だ”とばかり世間一般の評価とは違うことをいいたいのか、あるいは著者らの独断的な解釈を謙虚に表現しているのか、どちらにしても破天荒な書評であることは確かだ。

第1章(1900年~1910年)は、『不如帰』始め『みだれ髪』、『武蔵野』、『金色夜叉』、『蒲団』、『それから』と世にいう名作10冊を紹介しているが、たとえば『不如帰』について「現代は白血病だけど、昔は美女がかかる病気は結核と決まっていた。タイトルも喀血と“鳴いて血を吐くホトトギス”に引っかけたんじゃないか。その発想ひとつ取ってもいかにベタな小説かがわかる」といいたい放題だが、著者らの知識も半端ではない。

第2章(1911~1920年)の名作といえば、『土』、『三太郎の日記』、『羅生門』、『城の崎にて』などがあるが、この二人にかかっては名作も散々である。『三太郎の日記』で、「1行に2回くらいずつ(よりよく)という言葉が2ページほどの間に40回も出てくる」と、これまたよく読んでいる。長塚節の『土』に序文を書いている夏目漱石のことは、「こんなのまで面倒見ていたら胃潰瘍にもなる」とユーモアも忘れない。一方、『羅生門』は鬼伝説の代わりに老婆を登場させ、古典の換骨奪胎の見本的作品だといいながら、芥川龍之介の文章はもちろん、現代的な視点という意味で大いに敬意を表する余裕も見せている。

第3章(1921~1930年)では、『山椒魚』、『銀河鉄道の夜』、『放浪記』、『蟹工船』など。『蟹工船』の小林多喜二の文章について擬音の表現が宮沢賢治にはるかに及ばないとか、井伏鱒二は短編の『山椒魚』に死ぬまで手を入れ続けたそうで、「やっぱりバカなんじゃないの」と著者らは宣っているが、ある意味で小気味良い。

第4章(1931~1940年)は、『人生劇場』、『宮本武蔵』、『風立ちぬ』、『墨東奇譚』、『雪国』とこれまた名作を滅多切りで、戦後を代表する教養小説といわれる『人生劇場』も、「バンカラというよりバカどもの果てしなき饗宴」であり、「川端康成が絶賛してベストセラーとは耳を疑った」と本書にかかればこうである。

第5章(1941~1950年)で取り上げる『智恵子抄』、『嘔吐』、『斜陽』、『細雪』なども、著者らの率直な表現が利いている。サルトルの『嘔吐』に至っては、1946年の日本のベストセラーの5位になったが、日本人は本当に読んだのか、というより理解できたのかと書いて、意外と本質を衝いているのかもしれない。

第6章(1951~1960年)の『武蔵野夫人』、『潮騒』、『太陽の季節』、『挽歌』、『楢山節考』、『陽のあたる坂道』などでは、たとえば『太陽の季節』は「書きっぷりが妙に尊大で、嫌味な感じがあるのは確か」で、江藤淳が「無意識過剰」とその作風を評したと紹介しているが、いい得て妙とはこのことか。『楢山節考』の深沢七郎は、色紙に「人間が死ねば平和になる」と書き、日本人の人口は500人でいいといっていたそうだ。

第7章(1961~1970年)は、『頭のよくなる本』、『砂の器』、『徳川家康』、『氷点』、『おれについてこい!』、『頭の体操』、『竜馬がゆく』と、良くも悪くもベストセラーのバカバカしさが現われてきたと本書は書いているが、大宅壮一が日本を“一億総白痴化”と表現した軽薄な時代を迎えたのかもしれない。

第8章(1971~1980年)の代表作は、『日本人とユダヤ人』、『恍惚の人』、『日本沈没』、『ノストラダムスの大予言』、『限りなく透明に近いブルー』など。遠藤周作が『日本人と…』の著者、山本七平のペンネーム「イザヤ・ベンダサン」は、本当は「いざや、便出さん」だと看破していたと書いているが、この博覧強記の著者への本書の評価は高い。

第9章(1981~1990年)は『窓際のトットちゃん』、『なんとなく、クリスタル』、『悪魔の飽食』、『サラダ記念日』、『ノルウェイの森』と、著者らがいう「ベストセラーのバカの本丸」に突入した時代だそうだ。『窓際の…』は「金持ちの子が書いた『綴り方教室』だ」といい、200万部を売った『サラダ記念日』は短歌の地位向上に寄与したと一定の評価を与えているが、少しは“文学的”だからか。ただ、『ノルウェイの森』について刊行当時はクソミソにけなしたことを本書で謝罪しているが、今や著者がノーベル文学賞候補になったからなのか、多少違和感はある。

最後の第10章(1991~2000年)に登場するのは、『マディソン郡の橋』、『大往生』、『失楽園』、『五体不満足』など、出版不況を象徴するような内容のものばかりで、「井戸端会議的な『大往生』」とか、「若いOLまで読んでいた『失楽園』」とか、著者らの筆法も心なしか冴えない感じだ。

「本というのは、1冊丸々読んでみて初めて理解できる、あるいは理解できないことがわかるものだ。だから、この本を読んで改めて過去の文化遺産という宝物を掘り起こしてほしい」。著者らはこう結んでいるが、強烈で挑戦的な表現はあるにしても、衒学的な部分が鼻につくというわけでもなく、世にいう名作やベストセラー、話題になった本を手に取ってじっくりと読んでみたい、再読してみたいという気持になった点では、本書の役割は立派に果たされたのではないか。また、本書の巻末には詳細な索引が付いていて、人名でも作品名でも事柄でも引くことができるのも親切である。

(本屋学問 2016年12月18日) 
 

元気な日本論/橋爪大三郎×大澤真幸(講談社現代新書 本体920円)


本書は、いつも息の合う社会学者二人の対談集である。本書カバーの裏内に、『本書は、日本の歴史をテーマにする。でも、ふつうの歴史とは、まるで違う。歴史上の出来事の本質を、社会学の方法で、日本のいまと関連させる仕方で掘り下げる』とある。勝手な要約でポイントを紹介する。


疑問1。「なぜ日本の土器は、世界で一番古いのか」。わが国には恵まれた自然があり、住み心地がよいので、農業が始まる前に縄文の人びとの定住がはじまっていたので生活の土器が作られた。


疑問2。「なぜ日本には、青銅器時代がないのか」。弥生時代、青銅器と鉄器が同時に日本に渡来した。世界の、貴重な青銅製の武器で戦争をした2000年に及ぶ青銅器時代が日本にはない。


疑問3。「なぜ日本では、大きな古墳が造られたのか」。世界や中国は軍事的に大きな城壁を造ったが、日本は、余剰労働力を“軍事”ではなく平和的に“威信”に変換したのでは、と見る。


疑問4。「なぜ日本には、天皇がいるのか」。天皇は神を祀り、中国の皇帝は天を祀る。中国は「天の意思」で革命を起こし皇帝が代わるが、天皇は祖先につながる神を祀るので交代の必要がない。


疑問5。「なぜ日本人は、仏教を受け入れたのか」。聖徳太子の60年ぐらい前に仏教を取り入れた。仏教は、宗教だけでなく、建築、暦法、冶金、漢字、衣料など学ぶべきことが多かった。


疑問6。「なぜ日本は、律令制を受け入れたのか」。日本とは異質の天を祀る皇帝をトップとする中国の律令制を取り入れたのは、軍隊を整備し税金を徴収し、中国との戦争に備えるためだった。


疑問7。「なぜ日本には、貴族なるものが存在するのか」。貴族(公家)は、律令制の政府でポストを持ち、律令制の許さない土地を所有し、統治権、裁判権を持つ。公家は律令制に咲いたあだ花。


疑問8。「なぜ日本には、源氏物語が存在するのか」。仮名には平仮名、片仮名がある。万葉仮名を入れると3種類。女性文学は仮名文字の発明による。千年も前の女性作家は世界でも珍しい。


疑問9。「なぜ日本では、院政なるものが生まれたか」。平安時代は、藤原氏による摂関政治が行われた。院政は、これに対抗して院が権力を取り返したかたち。どちらも天皇はロボット化している。


疑問10。「なぜ日本には、武士なるものが存在するのか」。東国の荘園の役人や地主は強くなり、京都の政府や貴族は内実がなくなる。武士は、所領と勢力を拡大し、やがて封建制度に移行。


疑問11。「なぜ日本には、幕府なるものが存在するのか」。律令制では天皇が主君である。承久の乱で幕府が勝っても天皇家は存続する不思議。幕府すなわち武家政権は世界に例がない。


疑問12。「なぜ日本人は、一挨なるものを結ぶのか」。一揆の仲間は人間として対等の関係。土一揆、徳政一揆など、要求は限定的。領主の支配から独立して共同体を運営することはなかった。

疑問 13。「なぜ信長は、安土城を造ったのか」。天守閣は宗教・儒教の絵画で荘厳。信長は、自 らあらゆる宗教の上に立つ普遍的な唯一神になることをもって支配の根拠にしようと考えていたか。


疑問14。「なぜ秀吉は、朝鮮に攻め込んだのか」。秀吉の天下統一後、新しい領地を獲得しようと した場所が朝鮮だった。理由は、戦国大名の過剰軍備、戦争マシーンを止めようがなかった。


疑問15。「なぜ鉄砲は、市民社会を生み出さなかったのか」。世界では、鉄砲ができて傭兵制が 生まれ市民革命が起きた。日本では鉄砲は武士だけが持ったので市民革命は起きなかった。


疑問 16。「なぜ江戸時代の人びとは、儒教と国学と蘭学を学んだのか」。徳川政権は、大名・武士などの不平・不満などを抑え、幕府の正続性を理論づけるために儒教、国学を最大限利用した。


疑問17。「なぜ武士たちは、尊王思想にとりこまれていくのか」。正統性は幕府か天皇か。山崎闇斎は、徳の政治で徳川の代になったが、天皇を崇敬すべきだと儒学と国学の混合論でリードした。


疑問18。「なぜ攘夷のはずが、開国になるのか」。薩英戦争や下関で列強の強さを知って開国になったが、開国の真の狙いは、日米和親条約を結んで日本の植民地化を防ぐことだった。


「あとがき」によると、二人で「その場で探求」し、「仮説を出し合い」、触発されて「論点を加え」、 「明晰な回答へ」と向かった(略)、「分かった」という愉悦を味わった、と言っている。


 (山勘 2016年12月20日)

書感〈詳細版〉

  日本語を作った男 上田万年とその時代

山口謡司 著 集英社インターナショナル 刊 2300円


 これは、多少山勘による“書感”も混じりますが、むしろ書感というより本書の梗概です。

ただし梗概といっても、およそ550頁に及ぶ大冊から、山勘の主観で「国語」よりの粗筋を追ったものです。本当は日清日露戦争を含む時代背景や、多彩な登場人物のリアルな描写が面白いのですが、その辺りにご興味あれば、ぜひ本書をお読みください。


さて、本書の帯に、「漱石、鴎外、緑雨 そして万年、言葉で国を作ろうとした男たちがいた」とある。さらに表紙カバーの内うらには『明治維新を迎え「江戸」が「東京」となった後も、それを「とうきやう」とか「とうけい」と様々に呼ぶ人がいた。明治にはまだ「日本語」はなかったのである。「日本語(標準語)」を作ることこそが国(国家という意識)を作ることである―近代言語学を初めて日本に導入すると同時に、標準語の制定や仮名遣いの統一などを通じて「近代日本語」の成立にきわめて大きな役割を果たした国語学者・上田万年とその時代を描く』とある。


著者は大東文化大学準教授、博士(中国語)。日本語に関する多くの著書を持つ。本書の「はじめに」言う。要約すると、我々が使う現代日本語は、明治時代も後半、およそ100年前の1900年頃に作られた。いわゆる言文一致運動の産物である。自然に変化してこうなったものではなく、「作られた」日本語である。作られた「標準語」であり、官報で公表され、教科書で使われて普及することになった。新しい日本語作りは、明治維新とともに訪れた。


そうして作られた言文一致体の「標準語」から1千年遡ると、平安時代の前期、日本語を〈ひらがな〉と〈カタカナ〉と漢字を使って書き始めた時代、つまり日本語の黎明期が見えてくる。言語がおよそ100年でひとつの大きな変化を見せるということから考えれば、それが十回連なって、日本語は大きな調整を行わなければならない時期に差しかかっていたのではないかと思われる。それが、明治維新という大きな波とともに訪れたのである。


そうした中で、大きな役割を担ったのが、東京帝国大学文科大学教授で、ドイツ、フランスの留学を終えて最先端の学識を持つ「博言学」の専門家である上田万年(1867~1937)だった。ちなみに「万年」の読みは「かずとし」だが、本人もしばしば「まんねん」と称している。以下、本書の内容を概観する。


序 章

序章は、森鴎外の登場で舞台の幕が開く。


ピンと八の字に広がる鼻髭を蓄えた男がおもむろに立ち上がると、ひとつ咳をして話しはじめた。

「私はご覧の通り委員の中で1人軍服を着して居ります」

押し殺した低い声は、周りを圧倒するに十分だった。

黒い軍服礼装の左胸に、たくさんの胸章が光っている。

男の席の上には「陸軍軍医総監・陸軍省医務局長 森林太郎」という名札が置かれていた。


男は森林太郎すなわち鴎外。舞台は、明治41(1908)年6月26日に開かれた「臨時仮名遣調査委員会 第4回委員会」。鴎外の長広舌で会議の空気が変わり、この委員会で、万年らによる明治の「日本語づくり」の努力と成果がものの見事に葬りさられることになる。


第1章 明治初期の日本語事情

万年は、こう紹介されている。上田万年(1867~1937)、言語学者、国語学者、東京帝国大学国語研究室初代主任教授、国語調査委員会主事、東京帝国大学名誉教授、ドイツに官費留学し言語学を修める。バジル・ホール・チェンバレンの弟子。万年の弟子には、新村出、橋本新吉。小説家円地文子の父。著書に「国語のため」「国語のため2」など、とある。


同時期、同分野で万年以上に有名なのは、大槻文彦(1847~1928)である。アイウエオ順に言葉を並べて、福沢諭吉から「下駄箱のように言葉を並べた」と言われながらも、我が国で初めて「言海」という近代的な辞書を作った。また、万年の弟子で「広辞苑」を編纂した新村出もいる。


この時代、全国から人の流入する明治維新の東京では、出身地の異なる「地域的方言」と階級の異なる「社会的方言」で、お互い何を言っているのか分からない「通じない日本語」の混乱の中で生きていたという。


第2章 万年の同世代人と教育制度

明治10年代は、森有礼、新島譲、内村鑑三などを中心に、日本語を捨てて英語にしようという動きがあった。明治の教育システムを作った中心人物は森有礼、大木喬任、戸山正一の3人だった。いずれも文部大臣を歴任することになる。森は、日本語を廃止して英語を公用語にすることを唱えた。新島襄や内村鑑三も英語派で、この2人は意外にもほとんど日本語で書かれたものを読めないという劣等感を持っていたという。


明治20年代になると欧化政策の反動で、教育勅語が出され国粋主義的な動きが出てきた。明治33(1900)年には、文部省が、それまで小学校の科目にあった読書、作文、習字をまとめて「国語」という科目を作った。しかしこの段階では「標準語」はできていない。

万年は慶応3(1867)年、東京の尾張藩(名古屋藩)下屋敷で、尾張藩士だった上田虎之丞といね子の長男として生まれた。万年が3歳の時、父の虎之丞がコレラで亡くなった。母いね子は、学問を身につけて人のためになる人間になれと万年を厳しく育てた。同じ年に、生涯の友となる斎藤緑雨が生まれる。早熟だった緑雨は、12歳のころ万年の目を小説に向けさせた。幸田露伴もこの年の生まれ。


もう一人、万年に影響を与えたのは坪内逍遥(1859~1935)である。万年が東京大学(後の帝国大学)に入ったのは明治18(1885)、2年前に卒業していた坪内は、「文学士」の称号を持つ初の小説家として「小説神髄」「当世書生気質」の2作を発表した。

坪内は「小説神髄」で、「小説の主脳は人情なり」と言い、「人情とは人間の情欲にて、所謂百八煩悩是なり」と言った。「情欲」には「パッション」とルビを振っている。「当世書生気質」では学生たちが、ウオツチ(時計)、ユースフル(有用)、比(ヒ)ストリカル、委(ヱ)エツセイ(史論)などと外来語をそのままふんだんに使っていて新しかった。


第3章 日本語をどう書くか

明治10年代から40年頃までの日本語論争で、日本語をどう書くかが大きな問題だった。古事記の時代以来、日本語は漢字と〈かな〉交じりで書き続けてきたが、江戸時代末期には漢字を廃止しようという動きが起き、明治になると日本語はひらがなだけでいいという運動やローマ字化すべきだと言う運動まで起きた。


たとえば、蘭学者で戯作者の森嶋中良(1754~1810)は「紅毛雑話」の中で、「唐土の国人。夜を以って日に継。寝食を忘れて勤学すれども。生涯己が国字を覚尽し。その義を通暁する事能わず」と言い、しかるに「欧羅巴州は。二十五字の国字を以て。少なからず」として漢字廃止を唱えた。


ひらがな派では、物集高見(1847~1928)が「かなのしおり」で、「わが みくに も また 五十 の こえ 五十 の もじ ありて よろづ の もの を よび ちぢ のこと を しるさば ひと の くに の もじ は かる べく も あらぬ を」と言う。


ローマ字派では、「かなのくわい」会員から明治18(1885)年に発足した「羅馬字会」に転向した東京大学教授外山正一だった。彼は講演で、「漢字を廃さんと云う者ならば(中略)何んでも御座れ一々之を賛成なさんとするものなり、今の時に在ては余は漢字程嫌なるものは他にはあらざるなり」と言っている。


こうした、かな派やローマ字派、漢字廃止派・擁護派に共通した問題だったと思われるのは「歴史的仮名遣い」の「書き分け」であった。このような時、初めての近代的国語辞典といわれる大槻文彦の「言海」が世に出た。驚くのは「旧仮名遣い」で書きながら、用語の脇に「カタカナ」で「新仮名」の振り仮名がふってあったことだ。たとえば、「あきなひ」の「ひ」に「イ」、「えんがは」の「は」に「ワ」などである。

そうした日本語における「表記」と「発音」の不一致を解消することが、後の言語学者、上田万年に課せられた使命だったといえる。


第4章 万年、学びのとき

万年が東京大学に入ったのが明治18(1885)年。翌年から「博言学」、現在の「言語学」を学ぶことになる。当時はまだ、だれも「国語」を知らず、「日本語」という言葉も知らなかった。万年の先生は“お雇い外国人”のバジル・ホール・チェンバレンだった。彼は、古典、方言、文字などあらゆる面から質の高い日本語研究を行っていた。万年は、英国人チェンバレンに日本語とは何かを学んだ。


後になって万年は東大入学当時のことを「国語と国文学」に書き残している。それによると、明治19(1886)年頃の国語学は、田中稲城、物集(もづめ)高見らによって教えられた。現代(明治)の言葉と奈良朝や平安朝時代の言葉との間に、どれだけの違いがあるかという概念すら授けずに、「語彙別記」や「活語指掌」を授け、文法を教えるのであるから、初めて聞いた学生は非常に理解に苦しんだ、と云う。


ここでいう田中稲城(1856~1925)は、のち、帝国図書館(現・国立国会図書館)の初代館長となる人である。


物集高見は、明治18年に出版した「日本文明史略」に、この年、初代内閣総理大臣に任命された伊藤博文が序文を書いている。大正7年には、古典文献の百科事典ともいうべき「広文庫」を世に出した。全20冊。1冊は平均600頁を超えるものを一人で成し遂げた。

明治21(1888)年、チェンバレンは、弟子であり学生であった万年を「共著者」として書き上げた「日本語の最古の語彙について」という論文を発表した。この論文が、この年、帝国大学文科大学を卒業して大学院に入学した万年にとって、学者としての道を歩む自信になった。


万年ひとりでの最初の論文は明治22(1889)年発表の「日本言語研究法」で、以降、明治23(1890)年までに7本の論文を発表した。そして万年は、言語研究のために、この年、明治23(1890)年からドイツに3年、フランスに半年の留学を文部省より命じられた。


第5章 本を、あまねく全国へ

明治から昭和初期まで、言論界で大きな影響力を持った徳富蘇峰を明治の大ジャーナリストとして取り上げ、日本語形成に大きな影響を与えたと評価している。蘇峰の発行した雑誌「国民之友」を舞台に、坪内逍遥、山田美妙、森鴎外、幸田露伴、樋口一葉、泉鏡花、二葉亭四迷などが作品を発表した。


蘇峰に続いて大手の出版社や販売・流通業が出来て行った。蘇峰は言文一致の名文家としても名を上げたが、名講演でも定評があった。その例として本書に、明治44(1911)年に旧制第一高等学校で行った講演「謀叛論」の終わりの部分を紹介している。これは幸徳秋水の死刑について語ったものだが、本書は「これを読んで感動しない者はあるまい」という。


蘇峰は言う。「諸君、幸徳君らは時の政府に謀叛人と見做されて殺された。諸君、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となることを恐れてはならぬ。新しい者は常に防叛である。「身を殺して魂を殺す能わざるものを恐るるなかれ」。肉体の死はなんでもない。恐るべきは霊魂の死である。(中略)


諸君、幸徳君らは乱臣賊子となって絞台の露と消えた。その行動について不満があるとしても、誰か志士としてその動機を疑い得る。諸君、西郷も逆賊であった。しかし今日となって見れば、逆賊でないこと西郷のごとき者があるか。幸徳らも誤って乱臣賊子となった。しかし百年の公論は必ずその事を惜しんで、その志を悲しむであろう。要するに人格の問題である。諸君、我々は人格を研くことを怠ってはならぬ」。


第6章 言語が日本を作る

万年の明治23(1890)年留学の前に、森鴎外が明治14(1881)年から21(1888)年までドイツに、夏目漱石が万年の10年後の明治33(1900)年にイギリスに渡っている。漱石は詳細な日記を残したが、万年は、渡航について、どこの船に乗り、どこに立ち寄り何を見、どう感じたか何も残していないという。万年の弟子で、「故郷」など多くの童謡を残し、小学校唱歌を編纂した高野達之は、万年が「一冊でも多く参考書を買って来たいと思って、独逸汽船の三等で往ったが、牛や豚に近いところで苦しかったと話されていた」と云う。

万年は、ベルリン大学で、ガーべレンツ教授に、歴史の新しい「言語学」を学ぶ。その著書「言語学」(1891年刊)が出た2か月後に直接学びはじめる。わが国ではようやく2009年に獨協大学名誉教授川島淳夫によって翻訳された。訳本で500頁を超える大冊である。


がーべレンツは、「言語学」の中で、日本では「1,500年も前から、漢語は彼らの人文科学的教養の基礎をなしている」と言い、それも「日本人を文法的研究に駆り立てることはなかったようだ」が、その代わりに、漢語の補助語研究や「語彙研究と文字研究は、それだけに重要であった」としてその研究を評価する。あるいは、孔子の教えは、日本にきて「その教えとは無縁の古い文化を見出した」と言い、古い口伝の伝説や歌や祈祷は、まず文字で書き止められ、今日まで評価され、研究しつくされたと言う。さらに、日本語は「英国のサクソン語あるいはデンマークの古ノルド語と同じくらい急速に変化した」と言う。


また、日本語の五十音図は、かなり合理的な配列をしており、これはインドの音列に従っているとしながらも、自国語の体系的な研究において、「そこには奴隷的な模倣の影は微塵もない」と言う。そして「われわれヨーロッパ人が、いかに暴力的にかつ、長きにわたって見知らぬ言語をプロクルステスのベッドに無理矢理に押し込んだかを考えてみると、われわれは東洋の島国の文法家たちを、彼らの学問的な心遣いのために賞賛せずにいられない」と記している。


さらに万年は、ベルリン大学でポップ教授の最新言語学「グリムの法則」を学ぶ。これは多言語間に共通した「語根」を調べて言語間のつながりを研究するもので、のちに触れるように、万年の活画期的な「P音考」論文につながっていく。


第7章 落語と言文一致

万年留学の年に第1回帝国議会衆議院総選挙が行われ、直ちに帝国議会が開かれた。議員発言を正確に「議事録」に記録するために、初めて「速記」が採用された。「議会」と「速記」が結びつく意外な媒介が「落語」だった。


明治時代前期の人々の楽しみは落語だった。漱石と正岡子規が仲良くなるのは落語という共通の趣味があったからである。万年も落語が大好きだった。

当時、落語界で名人と言われていたのは、初代三遊亭円朝だった。円朝は、「怪談牡丹灯籠」という新作落語を得意としていた。これが、明治17(1884)年に速記で起こされ、「怪談牡丹灯籠」(三遊亭円朝 演述 若林かん蔵 筆記)として出版された。(かん蔵のかんは漢字で、王扁+甘)。これは、話し言葉をそのまま文字にした画期的試みだった。

その速記本の「怪談牡丹灯籠」の一節を引くと、萩原新三郎宅を山本志丈が訪ねて、

志「存外の御無沙汰をいたしました。鳥渡(ちょっと)伺うべきでございましたが、如何にも麻布辺からの事ゆえおっくうでもあり且つ追々お熱く成て来たゆえ(中略)何お加減がわるいとそれはそれは」

新「四月の中旬(なかば)頃からどっと寝て居ます。飯も碌々給(た)べられない位で困ります。お前さんもあれきり来ないのは余(あんま)り酷(ひど)いじやァありませんか」(カッコ内はルビ)といったぐあいである。


そもそも速記は、岩手出身の田鎖(源)綱紀(1854~1938)が独力で発明したものだが、アメリカのグラハム式というものを日本語に応用したものとされる。明治5年頃世に出され、明治15年(1882)に「日本傍聴筆記法講習会」が立ち上げられた。若林は、その第1回卒業生だった。


田鎖綱紀の速記を具体的にまとめた、日本傍聴筆記学会大阪支部会長の丸山平次郎が明治18(1885)年に出版した「ことば乃写真法」は、総論の中で、「人の言葉を耳に聞くまま詳細同時に写真するの学術なり」と記す。学術というように、あるいは当時の「博言学(言語学)」より、日本語の音素に」対する研究は、進んでいたかもしれない、と本書は言う。


丸山は、日本語の発音を「単音」と「複音」のふたつに大別するという。

「単音」とは、アイウエオよりワヰ于ヱヲ及びンガ、ンギ、ング、ンゲ、ンゴよりルラ、ルリ、ルル、ルレ、ルロに至るの総数95音を云う。


「複音」とは、キャ、キィ、キュ、キェ、キョよりリャ、リィ、リュ、リェ、リョ及びンギャ、ンギィ、ンギュ、ンギェ、ンギョよりツヮ、ツヰ、ツゥ、ツェ、ツォに至るの総数110音を云う。


つまり、以上の総計205音で日本語はすべて写し取ることが出来ると言うのである。

万年は、明治30年に「国語会議について」という論文で、「まず発音の上より述べんに、現に我国には如何程の母音及び子音が存在するか、これらは誰人も未だ十分調査したることなきが如し」と書いている。しかし速記者は、「言文一致」をさせるためにすでに日本語における発音を聞き分け、書き分けなければならない音の数を把握していたのである。


この頃、円朝の落語の速記通りに書いて言文一致を行ったと公言した作家が二葉亭四迷である。四迷の言文一致体小説は、どうして英語やフランス語など外国語で書かれた文章には、日本のような口語と文語の区別がないのかという疑問から始まった。

悩んだ四迷が坪内逍遥のところに相談に行く。すると、坪内先生(逍遥)は「円朝の落語のように書け」とアドバイスする。その通り書き進めるうちに、四迷は、文章の語尾を「です」「ます」にするか、あるいは「だ」にするかで悩む。語尾が文中の言葉に影響するからである。たとえば「私が君たちの先生です」、「おれが、お前たちの先生だ」と内容が同じでも言葉が変化する。


考えた末に四迷は、明治20(1887)年、「だ」で終わるスタイルで小説「浮雲」を発表する。翌明治21年、ツルゲーネフの「あひびき」を翻訳する。その翌年、明治22年に、山田美妙が「です」「ます」調の小説「胡蝶」を発表する。


第8章 日本語改良への第一歩

万年は、明治27(1895)年6月に帰国、大地震直後の惨状を呈する東京に着いた。翌7月には帝国大学教授の辞令を受ける。この月、日本は朝鮮半島に出兵し、ここから日清戦争が始まった。9月、新年度が始まって、帝国大学文科大学国文科に入学した万年担当の博言学専攻の学生はたった1人、のちに万年の片腕となる保科孝一だった。10月、帰国後初の講演を栄誉ある哲学館(現・東洋大学)で行った。演題は「国語と国家と」、内容は日本語は日本人の精神的血液なり」というものであった。帝国大学文科大学長・戸山正一や哲学館創設者・井上円了も聴いていた。


明治28(1895)年に、万年は、幼馴染の斎藤緑雨に勧められて「帝国文学」を創刊した(大正9年廃刊)。斎藤緑雨は、今や、森鴎外、尾崎紅葉、幸田露伴、などと並ぶ当代随一の小説家として活躍していた。発起人は哲学者・井上哲次郎、弟子の言語学者・芳賀矢一など帝国大学出身者が名を連ね、続いて大学学生の高山樗牛、上田敏、夏目漱石の名も見える。森鴎外、芥川龍之介らも創作を発表した。


また万年は、この28年発刊の雑誌「太陽」に論文「欧州諸国における綴字改良論」を発表し、わが国においても明治維新の世に相応しい綴字法の改良が必要だと訴えた。これを含めて14本の論文をまとめた自著「国語のため」がこの年、坂本嘉治馬の冨山房から上梓された。明治29(1896)年、万年は図書編纂審査委員に任命される。


第9章 国語会議

明治30(1897)年、万年は、国家こそが言語に対して責任をもって対処すべきだとして「国語会議」の設置を唱えていたが、その延長で「国字改良会」が発足した。ここで、まず発音の問題が取り上げられる。たとえば井とイ、ヱとエ、カとクァ、ワとハなどを共存させるかどちらかに統一するかといった問題や、「音素」と「音韻」の問題などである。そして万年は、全国に共通する標準語の制定、仮名遣いの発音主義での統一を唱える。


明治31(1898)年、万年は文部省専門学務局長兼文部相参与官(高等官二等)兼東京帝国大学文科大学教授となる。万年の手にわが国の「国語」の将来が託されたと言える。

明治32(1899)年、万年は、わが国初の文学博士の称号を授与される。翌年、文部省の国語調査委員となる。委員長は、漢字廃止を唱えた前島密、委員には「言海」を編纂した大槻文彦、「国民の友」の徳富蘇峰らが名を連ねた。この年、弟子の芳賀矢一がドイツに留学。同じ船にイギリス留学の夏目漱石が乗っていた。芳賀は2年後、帰国に際してロンドンの漱石を訪問し、彼が精神病に衰弱していることを万年に知らせ、即刻帰国を進言した。


この32年は万年にとって実りある「仮名遣いの革新」が行われた。帝国教育会国字改良部仮名調査部の会議などを経て、文部省は小学校令において、読書、作文、習字を「国語」の一科にまとめ、仮名字体・字音仮名遣いを定め、尋常小学校で使用すべき漢字を1,200字に制限することを決定した。字音仮名遣いとは、「棒引き字音仮名遣い」(略して棒引き仮名遣い)のことで、例えば「道理」は「ドーリ」となる。



万年は、前年の31年に「P音考」という日本語学史上画期的な論文を発表している。そこで万年は、まず本居宣長が、古代日本にはP(パピプペポ)ではじまる言葉がなかったと言ったことをそのまま信じる和学者を批判する攻撃的な筆致で書き出されている。


そこで万年は、グリムの理論など西洋の言語学やサンスクリット語の漢訳の例やアイヌ語の慣用句などを引用して、古代においてすでにP音があったと主張する。そして、古代の日本語では「はひふへほ」が「パピプペポ」と発音されていて、それが「ファフィフゥフェフォ」となり、「ハヒフヘホ」と変化したと新説を唱えた。この説は現代では正しい学説として認知されている。例をあげれば「母」は往古「パパ」であり、次いで「ファファ」になり「ハハ」になった。


万年も引用した「グリムの法則」は、政府が明治4年から洋学者に命じて訳出、出版していったイギリスの「百科全書」の中の「言語」を、明治12年に大槻文彦が訳出したものである。この「百科全書 言語」では、まだ東京大学に科目のなかった「言語学」の用語が使われていた。当時の言語学の最先端の学説がまとめられており、その一つが「グリムの法則」であった。


グリム童話のグリム兄弟はドイツ文献学、言語学の専門家で、兄のヤーコブは「ドイツ語文典」の著書を持つ。ヤーコブと弟のヴィルヘルムは、当時の言語学者、ベルリン大学教授ポップの異言語間の動詞変化研究や、デンマーク人ラスクの言語起源研究などを踏まえて、異なる言語間の単語を比較することによってついに音韻変化の法則を導き出すという画期的な方法を見つけ出した。万年は、これを用いて「P音考」研究を行った。


第10章 文人たちの大論争

万年は明治32年に文学博士となったが、対立する森林太郎・鴎外は24年に医学博士となっていた。鴎外は負けず嫌いで、人に論争をふっかけ、しつこく追い回すという癖を持っていた。坪内逍遥は「小説神髄」で「没理想」の小説、今でいうリアリズム文学を唱えたが、これに「美」や「真」を求める「理想」を唱える鴎外に、食い違った「理想」解釈で論難された。そのせいか坪内逍遥は小説の筆を絶ち、近松門左衛門とシェイクスピア研究に転向した。高山樗牛はひどく心身を痛めた。


文壇における鴎外の力は、どんどん大きくなっていった。鴎外の文章は、留学から帰った当座は口語体も試みたが、すぐ漢文の素養に支えられた古典的な美文に帰り、言文一致をめざす万年らとは相容れることはなかった。


樗牛(本名林次郎)は、昭和33年、ドイツ留学を目前にして、送別会の席上で喀血し、留学を断念した。


樗牛と鴎外の論争は、樗牛がまだ東京帝国大学哲学科の学生で、博文館の権威ある雑誌「太陽」の「文学」欄担当だった明治28年から、第二高等学校(仙台)教授を経て「太陽」編集主幹となり、昭和35(1902)年、31歳の若さで死去するまで、攻守ところを変えながら延々と続いた。


論争の一つで、意外な火種となったのは、国権主義者と呼ばれた鈴木醇庵が雑誌「日本人」で「西斑牙(エスパニア)文学の鼓吹」としてスペイン文学を紹介した中で、現代の「ドン・キホーテ」を「ゾン・キホテ」と表記したことだった。これに鴎外が雑誌「めさまし草」で「独り醇庵はいずくの国にもなかるべき発音法を用い」たと嚙みつき、エスパニア語の綴りと音を言語学的に説明し、「ドン・ギホテ」と読むべきだと言った。


これに勝負を挑んだのが上田敏で、「帝国文学」誌上でまず鈴木の訳語について「列記せる固有名詞の発音殆ど正鵠を得たるものなし」と断じた上で、鴎外には「柵草紙以来ギヨオテ、シルレルを奨説すること久し」と言い、鴎外の翻訳もドイツ文学通のはずなのに英語訳からの「多くは重訳、『即興詩人』の如き亦此類なり」と断じ、スペイン語を日本語で表記すれば「ドン・キホオテ」となるとした。ちなみに鴎外のギヨオテはゲーテ、シルレルはスイス人シルリングである。万年と親しかった斎藤緑雨は「ギヨエテとはおれのことかとゲーテ云い」と揶揄した。


この上田敏と鴎外の「ドン・キホーテ」論争に、樗牛は「太陽」の記事で「子供らしきを嘆かざるを得ず」と言い、音訳も必要だが、それよりも外国文学をもっと深く研究することが重要だ、と言ったことで論争が終わった。


明治32(1899)年、鴎外は、大村西崖(山扁ナシ)との共著でハルトマンの「審美綱領」を翻訳する。樗牛はこれに「哲学雑誌」に「『審美綱領』を評す」を発表する。

そして樗牛は、この書は、原書は827頁もある大巻」なのに、「和装上下2冊より成り、1冊各50余枚(中略)小冊子」にまとめたのでは内容を正確に伝えることは無理で、「若し大綱を挙ぐるを以て足れりとせば、目次のみにてもよし」と手厳しい。文章にも「意義甚だ了解し難きもの多し」と言い、用語も、美の「概念」を「詮議」、「主観」を「能変」、「客観」を「所変」とするなど16例を上げて、従来の用語例を無視した新訳語を批判する。


鴎外にとって最も厳しかった指摘は、ヘーゲルなど多くの美学者の名前を上げて、ハルトマンの美学は偏見甚だ多し」として、ハルトマンを美学史上最高の学者と考えているかという問いである。


これに対して鴎外も何度か反撃を試みたが、本誌の小見出しにあるように「鴎外の姑息な手段」による反撃で、昭和35年、樗牛が没するまで“有効打”はなかったようだ。

樗牛は「国語」への関心も高く、明治33年、「太陽」に「言文一致の標準」を書いた。「今日国民中に言文乖離の不便を自覚しはじめたるものありて、現に言文一致を用ひ居る人、言文一致会を設立したる人さえある事なれば、時勢が是の機運を助長し、一日も早く是の両者の一致を見得る様にするは、(中略)改革の標的とも見るべき標準語を一定するに若くは無し」と言った。言文一致の必要性を30万人の読者を誇る雑誌で言ったのは樗牛が初めてだった。


第11章 言文一致への道

万年の弟子芳賀矢一は明治33年(1900年)から35年までドイツに留学する。2人は同年で親友もあった。芳賀は帰国後東京帝国大学教授となり、「新撰帝国史要」など多くの著作を出したが、明治39(1906)年に「漢文のキ絆(漢字)を脱せよ」という論文を書いた。


そこで芳賀は、将来の文体は言文一致でなければならないと言い、国民独特の文体はは、日々進歩してゆく国民の口語から出てこなければならないと言う。


同じ39年に、万年は「言文一致ははたして冗長か」という論文を発表した。こちらも、将来の文体は必ず言文一致になるであろうと言っている。この論文が載った「文章世界」の同じ号に、二葉亭四迷の「余が言文一致の由来」が載っており、円朝の落語の筆記を使って、日本での初めての言文一致体の小説「浮雲」を書いたと述べている。明治39年は漢文を脱して言文一致に向かい、軸が大きく動いた年である。


すでに万年は、明治33(1900)年に「言文一致会」を作っている。この会は、明治31(1898)年に万年が会長となって設立した「言語学会」の中の組織である。言語学会の「言語雑誌」第2号の「雑報」欄に、今後、雑報欄ではいっさい口語体の文章を用いるとして、寄稿する人も口語体を取ってもらいたいと記されている。また、仮名遣いや、外国語の音韻の写し方などにも着手して、言文一致体と合うような日本語の表記を改める目的があることを明記している。これは、万年が明治28(1895)年に講演で主張し、30年に立ち上げた「国字改良会」の延長線上にある。


「言文一致」とも無関係ではない、明治33年発足の「国語調査会」は、35(1902)年に「国語調査委員官制発布」とともに「国語調査委員会」が発足した。委員には、加藤弘之(文学博士、男爵)、加納治五郎(東京高等師範学校長)、井上哲次郎(帝大教授、文学博士)、上田万年、徳富蘆花、大槻文彦、前島密ら13名が委嘱され、委員長は加藤、主事が万年となった。補助委員に万年の弟子、芳賀矢一、保科孝一、新村出ら6名が任命された。

「言文一致会」の発足は、「國學院雑誌」でも報じられている。その中で、言文一致会が文部省に国語調査会の設置などを要望していることが記されている。國學院は、國學院大學として残っているが、もともとは明治政府が設置した国学の研究・教育機関である皇典講究所が母体である。万年も東大定年後、國學院大學学長に就任している。その万年の前に芳賀矢一が大正7(1918)年から同大学の学長を務め、校歌を作ったりしている(作曲は「赤い靴」「七つの子」「十五夜お月さん」などの本居長世)。言文一致会の実質的な仕事は國學院大學の人たちがやっていた。


明治34(1901)、35(1902)年頃の言文一致の状況をみると、「尋常国語読本」に、「ぞーのめは、たいそー小さくて、はなは、たいそーながうございます」などとある。また明治35年、京都の国語科研究会編「高等小学 言文一致文」には「私事、(中略)尋常科を卒業しましたから、此度第一高等小学校へ入学することになり(中略)、同級生は120名あまりも御座ります」などとある。この文章のルビは、「尋常科」には「じんじょーか」、「卒業」には「そつぎょー」、「高等小学校」には「こーとーしょーがっこー」、「入学」には「にゅーがく」、「同級生」には「どーきゅーせー」などと長音記号が使われて言文一致の文章になっている。この長音符は万年が始めたものだった。


もう少しまとめたものに、明治36年出版の「仮名遣教科書」がある。これは明治33年に文部省が小学校令施行規則で定めた字音仮名遣である。いくつか紹介する。ここでは便宜的に矢印〈→〉を使い、→の前が従来の字音仮名遣、後が新定の字音仮名遣とする。


い ゐ→い  え ゑ→え  お を→お  か くゎ→か  が ぐゎ→が  ず づ→ず

あう あふ おう わう→おー  かう かふ こう こふ くゎう→こー  きゃう きょう けう けふ→きょー  しゃう しょう せう せふ→しょー  ちゅう ちょう てう てふ→ちょー   にゃう にょう ねう ねふ → にょー   びゃう びょう べう → びょー

きう きふ → きゅー  ぢう ぢふ → じゅー  にう にふ → にゅー


  この新しい字音仮名遣いについて、専門家はどのような意見を持っていたのだろうか。まず、「言文一致会」の発足時のメンバーのひとり三矢重松は「國學院雑誌」で、この小学校令から5か月が過ぎ、実施期限が迫ってきているのに「世間は果たして此の侭泣寝入となる積だろうか」として問題提起して、反対の立場を表明する。


たとえばこれまで、「灯」は「チャウ」、「召」は「テウ」、「蝶」は「テフ」と“字音読み”

で区別していたものを、漢字の“音読み”の「チョウ」にするような新字音仮名遣いは、「姑息なやり方、曖昧な態度気の毒な仕振りと悲しむ」と言い、やるなら漢字の字音だけでなく日本語の方も綴り方を言文一致にすべきだと言う。たとえば前の「象」の文章で、「はなは、たいそーながうございます」とあるが、どうしてこちらも「ながう」と書かずに「なごー」と書かないのかと問う。


この三矢に対して、同じ「國學院雑誌」に小説家・評論家の田口掬汀が「字音仮名遣に就いて」という論文を載せる。

三矢重松の「論旨多くは支離滅裂、論旨茫漠として一貫の脈絡を辿るに足らず」と言う。新仮名遣が発表になってからこの時まですでに8か月、これをもって「編纂したる教科書は、将に児童の手に落ちんとする時」、専門家の議論も反論もなされないのは、大方の人がこれを認めているからだと言う。


そして、たとえば、往古、法華経は「ホクヱキヨウ」だったが今は「ホケキョー」、皇室は「クワウシツ」から「コーシツ」となっている。「クヱ」と「ケ」と「クワウ」と「コー」と「いかなる方法を以てか発音の区別を為さん」と言い、そもそも発音そのままに綴り字することに「何の不可あらんや」と言う。


要するに「三矢の意見は、古典の素養のある人、あるいはこう言ってよければ保守的な世界観を持っている人たちの意見であって、田口の意見は、言葉は通じればいいと考える一般の人、あるいは革新的に社会を作ろうとする人の意見である」と本誌は言う。

こうして本格的な国語教育が始まった。明治35(1909)年、万年は「言語学雑誌」に「国民教育と国語教育」を発表した。論稿の元は国語学会で行われた講演である。そこで万年は、国民が「立憲」「実業」「海国」「科学」「文学美術」「宗教」の6つに知識を得るようにするために「国語教育」が必要だと強調する。


また万年は、「いろは」順と「アイウエオ」順について、電話帳は「いろは」順だが帝国図書館の目録は「アイウエオ」順であり、どちらをとってもいいが、文典を教えるには「アイウエオ」の五十音図がいいと言う。五十音図は平安時代後期にまとめられた。

たとえば、日本語の動詞は終止符が必ず「う」段で終わる。そして古語の「行く」「咲く」「立つ」などは四段活用であるが、「着る」は「上一段活用」、「尽く」「過ぐ」などは「上二段活用」、「蹴る」は「下一段活用」、であり、「経(ふ)」は「下二段活用」などと分類される。これらの「一段」「二段」は、「う」段に対して言われることである。五十音図の利点である。


さらに、「国語漢文」について、古典の日本語や漢文は実用を求める時勢に合わないとして「国民思想の大勢に鑑みて、之を適当なものにしなければならない」、つまり新しい日本語が必要だと言う。


そして万年は、日本の言葉を統一して、日本語を覚えるのに10年かかったものを、3年で覚え、次の4年で支那語を覚え、残りの3年で英語を覚えるというようにしていかなければなかなか競争場裡に立つことはできない、と言っている。


この頃、漢文の廃止について賛否両論があった。文部省が、高等学校、尋常中学校、師範学校の設置されている漢文科を廃止してこれを国文科に統合する案を高等教育会議に提出する動きがあり、論議が起きた。


漢文賛成派は、外国語科と同様に漢文科が必要だ、日清の交際上必要だ、徳育のために必要だ、教育勅語を観よ、などと主張する。漢文廃止派は、漢学者は教育法を知らず勝手に教授する、普通の知識を持つ漢文教師は「容易に得べからず」などと主張した。廃止派の中心には漢文を不得手とする前島密、森有礼、戸山正一などがいた。


第12章 教科書国定の困難

明治5(1872)年の学制施行以来、教科書が大きな問題だった。当初は江戸時代まで使われていた「往来物」や維新後に福沢諭吉などが翻訳した地理書が利用されるなど、書籍の採用は自由だった。


明治8(1875)年、「目下良書に乏しきに病む」として「学科上有益の書冊を編述」し、刊行すること、それにふさわしい文章を奨励する官令が出された。しかし明治13(1880)年には、「教育上弊害ある書籍は採用せざるよう」通達が出された。政府は、特に治安、風俗、国憲を乱す文章などを掲載する教科書がないように検定を依頼するとともに、各府県にこうした教科書を採用しないように命令を出した。


明治18(1885)年、森有礼が文部大臣になり、翌年、「教科書用図書検定条例」を発布して教科書採用の規則をつくり、各府県に小学校教科書の審議委員会を設置させた。しかし小学校の数が増え教科書の数が増えるにつれて管理が困難になっていった。教科書の内容だけでなく、印刷および紙質の悪化、認可および販売に関する不正などが問題になった。

これを受けて明治34(1901)年、文部省は小学校令施行規則で図書審査裁定に関する制裁制度を設けた。すなわち教科書の審査・採択に関する出版社側の利益供与などを禁じる5項目と禁固・罰金の罰則を定めた。


明治35(1902)年、教科書を巡る疑獄事件が発生し、文部省は、金港堂、集英堂、普及舎の3出版社を告発した。これは検定図書と相違する粗悪な紙質印刷で製作費の半額を収賄し、内容の文言・字句なども勝手に修正したことが判明したことによる。しかし事件はこれで終わらなかった。この3出版社は、地方から教科書の選定にやってくる高等師範学校教授、書記官、視学官などを新橋や数寄屋橋などの料亭・待合に招いて接待し、教科書採択や販売利益確保の工作をしていたことが発覚した。


この疑獄事件では、召喚・検挙200名、このうち元島根県知事、栃木県知事、愛知県会議長、教授、視学官など69名が官吏収賄罪で有罪となり、上記3出版社に加えて国光社、冨山房が教科書の被採択権を剥奪された。この事件が一段落した明治37(1904)年、教科書は「検定」から「国定」に切り替わった。


明治41(1908)年、義務教育の年数が4年から6年に延長される。この頃には、就学児童数は1千万人を超え、教科書の発行冊数は6千万冊を超えるにいたっている。


教科書に採用されて大きな影響を与えたのは夏目漱石である。橋本暢夫「中等学校国語科教材史研究」によれば、明治39(1906)年に発行された「(再訂)女子国語読本」に、漱石の「吾輩ハ猫デアル」の一節が「鼠を追う」という題で採録される。


漱石の作品は、ある資料によれば昭和3(1928)年から18(1943)年の間だけで計11本、件数では「草枕」の247件を筆頭に、いろいろな形で教科書に採用されており、漱石の言葉が日本語に大きな影響を与えたと考えられる。


第13章 徴兵と日本語

明治37(1904)年、「文部省内国語調査委員会」発行の「国字国語会長論説年表」は、慶応2(1868)年から明治36(1903)年までに起こった国語問題が詳細に記録されている。つまり国字国語問題はこの時までにほぼ完了していたとみられる。これが出版された時、日露戦争が始まっていた。


諸外国との歯車が動き出した日清戦争に続く日露戦争によって、日本は一躍列強と肩を並べることになる。日清戦争の勝利によって、清朝からの賠償金などでわが国の国庫には3億6千万円が貯えられた。それによって日本の貨幣制度は明治30年、待望の金本位制に移行することができ、外国資本の調達が可能になり、本格的な資本主義が発展しつつあった。


日本の中国進出は、「眠れる獅子 清国」への列強による侵略への機会を与えることになった。ロシアは東清鉄道(ウラジオストク―満州里)・南満州支線(哈爾濱―大連)の建設と、旅順・大連の租借を清国に呑ませた。


ドイツは、山東でのドイツ人宣教師殺害を口実に、上海に駐留していたドイツ艦隊で膠州湾を占領し、99年の租借と、山東鉄道(青島―済南)建設および山東半島での鉱山開発を清国に認めさせた。フランスは、広州湾の99年間租借と雲南鉄道の建設、イギリスは、威海衛の25年間租借を得る。


清朝国内では、列強による侵略に対していたる所で爆発した。山東で決起した義和団は、瞬く間に20万人に膨れ上がり、明治33(1900)年には、天津の外国人居留地を襲い、北京の各国公使館を取り囲んで、日本の公使館書記官とドイツ公使を殺害した。いわゆる「義和団の乱」あるいは「北清事変」である。


日本は各国の要請を受け、イギリス、イギリス領インド、アメリカ、ロシア、ドイツ、フランス、オーストラリア、ハンガリー、イタリアの、連合軍の主力として義和団の乱を制圧すべく8千人の兵士を派遣した。


これを主力に連合軍をまとめたのは福島安正であった。福島は欧米やシベリア、バルカン半島、インド、」ビルマなど世界各地を実見調査して陸軍参謀本部に方向を上げる諜報活動をしていた人物で、語学も、英・独・仏・露・中国語に堪能であったことから「北清連合軍司令官幕僚」として作戦会議をまとめた。福島の上官であった柴五郎も・英・仏・中国語が得意で、この2人の外国語通によって連合軍は義和団の乱を収め、次のステップに進むことになる。


乱での日本の戦利品は、柴の指示で押収した紫禁城戸部(財務省に当たる)の291万4,800両であった。さらに明治35(1902)年には日英同盟を締結することになる。

ロシアは、義和団の乱を切っかけに、東清鉄道および南満州支線と租借地である旅順・大連を暴動から守るという名目で南下をはじめ、満州に大量の軍隊を駐留させた。日本の国内では、このロシアの南下を認める代わりに日本の朝鮮半島支配を認めさせるか、イギリスと同盟を結んでロシアの南下を阻止するかという議論が起こった。


ロシアの南下を抑えて列強と同列に立つためにも、朝鮮半島の支配、満州への進出が必要だという世論が動きはじめた。遼東半島返還を余儀なくされた明治28(1895)年の三国干渉の屈辱をすすぐという感情的理由もあった。


1894年、ロシアとフランスは露仏同盟を結んで対イギリスの姿勢を作り、フランス資本でシベリア鉄道や満州での鉄道施設を始めていた。イギリスは南アフリカで起きたボーア戦争の泥沼化で、極東に兵力を回すゆとりがなかった。こういう状況下での日本からの同盟申し入れはイギリスにとって渡りに船だった。


明治35(1902)年、日本は、「商工的活動と国外起業の競争は近時国際関係上の一大特象にして其発動極東に於て最も著し」として、479万円に上る「清韓事業経営費」を閣議決定した。こうした日本に脅威を感じたロシアは、満州への兵力増強と軍事施設の強化を進めた。


日本国内では、近衛篤麿が会長を務める「対露同志会」の国粋主義者らが主戦論を唱え、帝国大学教授戸水寛を中心とする学者らによる、弱腰の外交姿勢を糾弾する「七博士意見書」が内閣総理大臣桂太郎と外務大臣小村寿太郎に出されるなど、次第に戦争への機運が強まっていった。こうしてついに明治37(1904)年、日本はロシアと国交断絶、宣戦布告をするにいたった。


日清、日露と続く戦争に必要なのは兵力であり、そのための徴兵であった。徴兵令が太政官布告されたのは明治6(1873)年、対象は17歳から40歳まで、免役の条件は「一家の主人たるもの」などと緩やかだったが、各地で「徴兵反対一揆」が起きるなど、うまくいかなかったので、明治12(1879)年に、次いで明治22(1889)年に、さらに37(1904)年に徴兵令が改正され、多少の懐柔策と徴兵強化や兵役拒否への罰則強化などがなされた。

この時代は、一歳の差がその後の人生を大きく変えた時代でもある。万年は、明治18(1885)年に帝国大学文学部和漢文学科に入学している。万年は、「官立大学・学校本科生徒は懲役を猶予する」という、明治6年の例外規定によって懲役を免れた。しかしもし帝国大学への入学が4年ほど遅れていたら懲役を免れることはなかった。


4年後の明治22(1889)年の改正徴兵令では、「明治16年の猶予制はすべて廃止」となった。そのあおりを食ったのが高山樗牛であり夏目漱石だったが、2人は、徴兵令の第7章付則の北海道と小笠原島の居住者が徴収免除や猶予を受けられる制度を利用して北海道に本籍を「送籍」して兵役を免れた。


第14章 緑雨の死と漱石の新しい文学

万年の12、3歳からの友人、斎藤緑雨が亡くなったのは明治37(1904)年だった。緑雨は、樋口一葉を世に出し、坪内逍遥、幸田露伴、与謝野寛らと親しく、明治初期の文学を開拓しようとした一人である。緑雨自作の死亡広告「僕本月本日を以って目出度死去仕候」が万朝報に黒枠付きで掲載された。偶然その隣に、日露戦争で非業の死を遂げた広瀬中佐の死亡記事が同じ黒枠で報じられていた。


緑雨の死因は、肺結核だった。36年の生涯の終わりの4年間は結核に冒された人生だった。経済的に困窮し、借金まみれのまま、内妻の金澤たけに看取られて亡くなった。枕頭に、野崎左文、馬場孤蝶、与謝野寛、幸徳秋水、幸田露伴、坂本紅蓮洞などが集まった。万年は緑雨を「常に不安の位置に居た人物だった」と評している。緑雨の「油地獄」は当時「名作」として賞賛されたが、ほとんど江戸の文学で、いま緑雨の作品を読む人はまずいない。


緑雨も万年も「江戸」が好きだった。万年より9歳年下の弟子で、「日本歌謡史」で東京帝国大学から文学博士号を受けた高野辰之は、「(万年)先生は愛知県士族ではあるが、江戸育ちで歌舞伎には通でもあり、贔屓役者も無いではなかった。私が浄瑠璃や歌舞伎やの演劇方面に志したのも、一つは先生の感化であった」と述懐している。


そうした万年の弟子には、学習院大学教授となり、和歌や連歌の研究に業績を残した福井久蔵、東京大学、実践女子大学教授となり、近世劇文学の研究で知られる守随憲治がいる。


この当時、大学や文学界では、どこかでだれかが結びついていた。万年と漱石は大きな糸で結びついていたわけではなかったが、万年の弟子芳賀矢一と漱石が留学の時からの縁があった。万年と幸田露伴は、緑雨を通じて仲がよかった。東京帝国大学ができた時、文学部に露伴を呼んだのは狩野享吉である。狩野は帝国大学文科大学哲学科で漱石と仲が良かった縁で、漱石の招きで熊本の第五高等学校に奉職した。漱石の親友だった正岡子規とも仲良く、子規と露伴は俳句でも繋がっていた。


万年と漱石の接点は帝国文学会にもある。その役員評議員に漱石の本名夏目金之助の記載がある。漱石は明治37(1904)年、高浜虚子の勧めで「我輩ハ猫デアル」を発表し、翌38(1905)年、「ホトトギス」1月号に掲載される。ここで、緑雨と同年の漱石が百年後の我々にも楽しめる小説をひっさげて登場することになる。


漱石の「猫」と万年の日本語には一致する部分がある。猫の鳴き方「ニャーニャー」、「スーと持ち上げ」「ヴイオリン杯をブーブー鳴らし」などの長母音「ー」は万年の掲げる表記法であった。


第15章 万年万歳 万年消沈

国字国語改良の議論がはじまる。明治37(1904)年、文部省内国語調査委員会発行の「国字国語改良論説年表」は、「維新前後の奏議献策を始め、従来幾多の書籍新聞及び雑誌等に発表せられたる論説」を集めたもので、慶応2(1866)年、「前島密、国字国文改良の議を将軍徳川慶喜に上つる」という記事にはじまり、最後は、明治36(1903)年、石川辰之助の「加藤博士に質す」と題した、国語調査委員会の文部省規定仮名遣いに対する優柔を責めた読売新聞の記事で終わっている。


それによると、前島による将軍への建議によって、国字国語改良の議論の火蓋が切られたということになる。前島は言う。「国家の大本は国民の教育にして其教育は士民を論ぜず国民に普(あまね)からしめ、之を普からしめんには、成る可く簡易なる文字文章を用いざる可らず」。前島の意見を明治政府が取り上げられたのは明治2(1869)年に、再び前島が「国文教育之議に付建議」「廃漢字私見書」を集議院に提出してからである。

その後、万年がドイツ語の言語学を輸入して日本語の音韻の変遷を明らかにし、弟子の芳賀矢一がドイツ文献学を輸入してわが国の文献の歴史を説き、漱石が英語学の専門家としてイギリスに留学させられたのもわが国を近代化して列強と肩を並べることが目的だった。同時にわが国の教育の根幹となる国字と国語を江戸時代のものから改良して、近代化するためであった。


しかし前島の上奏から30年経っても、国の政策は具体的には何も決まらなかった。再び国語問題が動き出すのは明治31(1898)年、井上哲次郎が「新国語確定の時期」と題して講演し、「現今こそ新しい国語を確定するに其好時期である」と述べた頃からである。

ここから明治38(1905)年、言文一致を目指す仮名遣いの改正が諮問されるまでの主な出来事を改めて同年表で見る。


レンツ、金澤庄三郎、藤岡勝二、猪狩幸之助、新村出らが「言語学会」を設立。9月、井上哲次郎が「国字改良論」を雑誌「太陽」に発表。7月、万年が「国語改良会」結成。11月、万年が文部省専門学務局長兼参与官に任命される。


明治32(1899)年。5月、漢字廃止論に反対する重野安繹が5,610字の「常用漢字文」を「東京学士会雑誌」に発表。6月、鴎外が小倉に左遷される。


明治33(1900)年。2月、「言語学雑誌」創刊。同2月、帝国教育会国字改良部漢字部が、漢字の節減、固有名詞には漢字使用、形容詞及び動詞にはなるべく漢字を用いない、簡易で定用的な漢字は保存、について議定。4月、第1回国語調査会が開会。5月、帝国教育会国字改良部新字部が、速記の持つ特長、日本の発音を写し得る、早く書き得る、読みやすい、覚えやすいなど10の長所を上げて、速記文字を以って新字とすることと決し、新字大体の標準を発表。同5月、帝国教育会国字改良部仮名調査部が、文字を縦行に記すこと、片仮名平仮名を併用すること、を決議する。6月、漱石、芳賀矢一、高山樗牛らに2年間の留学を命じる。8月、文部省は、小学校令において、「読書作文習字を国語の一科にまとめ、仮名字体・字音仮名遣いを定め、尋常小学校に使用すべき漢字を1,200字に制限」した。

明治34(1901)年。2月、福沢諭吉亡くなる。3月、貴族院で、言文一致の実行を国家の事業とされたいとの請願が「願意の大体は採択すべきものと決議」される。3月、貴族院で、国字改良の請願がなされる。5月、文部省が、万年、神田乃武ら11名に依頼していた「羅馬字書方報告書」を文部省総務局図書課より発行。


明治35(1902)年。7月、国語調査委員会は、其の調査方針を決議公表す。主な内容は、文字は音韻文字を採用とし仮名羅馬字の得失を調査、文章は言文一致体とし関連調査、国語の音韻調査、方言調査と標準語選定、など。9月、芳賀矢一がドイツ留学より帰国の途上ロンドンの漱石を訪ね、極度の神経症に罹っていることを知り文部省に連絡。同9月、正岡子規亡くなる。12月、漱石ロンドンを発つ。同12月、高山樗牛亡くなる。


明治36(1903)年。4月、漱石は、第一高等学校講師、東京帝国大学英文科講師を兼任。同4月、帝国教育会国字改良部は、文部大臣が第4回全国連合教育会に諮問した「高等小学校の国語科に羅馬字を加うるの可否若し可なりとせば其方法如何」について、加うるを可とし、その授け方を決議した。6月、「ホトトギス」に漱石の「自転車日記」が掲載された。同6月、万年の著書「国語のため2」が冨山房から発行された。


明治37(1904)年。1月、万年は冨山房から「五十音引西洋名数」出版。2月、万年は「(袖珍名著文庫第二十編)鳩翁道話」を出版。同2月、日本はロシアに最後通牒を発令し、2日後に仁川に上陸、10日には相互宣戦布告がなされて日露戦争はじまる。4月、斎藤緑雨亡くなる。5月、万年は、「なにわみやげ」と「軽口ばなし」を有朋館から出版。6月、万年は芳賀矢一とともに「教科書調査委員」に任命される。9月、高浜虚子と漱石は「俳体詩」なるものを始める。12月、子規、旧盧で「山会」を行う前に漱石家に立ち寄り「猫」を読む。10月、万年は金港堂から「舞の本」出版。


明治38(1905)年。1月号「ホトトギス」に、漱石「我輩ハ猫デアル」第1回掲載。1月号「帝国文学」に、漱石「倫敦塔」掲載。1月、日露戦争は1月2日に」旅順開城、3月奉天会戦、5月に日本海戦を迎える。5月、万年は東京高等師範学校内国語学会で「普通教育の危機」という題で演説。内容は、文部省が、国語仮名遣改定案と、字音仮名遣に関する事項を、高等教育会議と国語調査委員会とに同時に諮問したことは、普通教育のための国定教科書制度を目前にした対応策だというもの。講演記録は8月に冨山房から出版。9月、日露休戦条約、5日ポーツマス日露講和条約調印。同9月、万年は、福井久蔵と共著で「続新日本文典」出版。10月、万年の次女富美(のち、円地文子)誕生。10月、ポーツマス日露講和条約批准。


同年表の骨子は以上である。

その後、明治40(1907)年に、万年の弟子、保科孝一が「(改定)仮名遣要義」を弘道館から出版した。保科は、この当時文部省嘱託、東京帝国大学助教授、教科書の国定化が決まった明治37(1904)年以降は、教科書編集委員にも任命されていた。


「(改定)仮名遣要義」の序文でまず驚くことは、書き出しの「仮名遣の改定わ、国語教育上重大な問題である」との一節である。普通「は」と表記される主格の「は」が、実際の発音と一致すべく「わ」と表記されている。その先の文もすべて「わ」である。

そして、明治41年4月から小学校の新教科書で採択される予定だったこの新仮名遣いが、なお研究を要するところがあるということで、1年延期されることになった。しかし芳賀は序文中で、「我輩わ、文部省の改定案にわ、熱心に賛成して居るものであるが、しかしながら、其延期についてわ、少しも失望せんのである」と述べる。理由はこの一年間でさらに研究が進み、改定案の目的も価値もいっそう明らかになるであろうから、というものである。


そして明治41(1908)年5月、臨時仮名調査委員会が組織され、教科書に採用する仮名遣いが審議された。文部大臣牧野伸顕など、内部の主要な人々は、万年や芳賀矢一が提案する「言文一致」に賛成であり、これが決定されれば、教科書の仮名遣いも新仮名遣い、言文一致体で行くことが了承される予定であった。これが保科の言う明治41年から施行される予定になっていた「改定仮名遣い」だった。


その「改定仮名遣い」の例を保科の「(改定)仮名遣要義」からいくつか引いてみる。

旧仮名遣いで「かは(河)」などと書かれるものは、すべて「わ」と書く。

「かほ(顔)」「あふい(葵)」「をか(岡)」などの「ほ」「ふ」「を」は「お」と書く。

長音の場合は「あう、あふ、おう、おふ、おほ、わう、をう、をお、をを、はう、はふ」はすべて「おう」と書くというのである。


万年は、この改定にある程度満足だった。当時の「言文一致」と言われた「発音」と「表記」の一致を20年来研究してきた万年は「仮名遣改正の御精神には双手を上げて賛成をいたします」と言う。


しかしこの「改定仮名遣い」を1年延期したのはだれだったのだろうか。じつは、裏で画策した人がいたのである。そのことについて保科が「国語問題五十年」に記している。

それを要約すると、文部省が国語のかなづかいを発音主義で改定することとして作業を進め、国語審査委員会の最終答申が文部大臣に出されたのを受けてふたたび高等教育会議に諮問したところ、大多数をもって可決された。ところが、文部省参事官岡田良平氏がこれに反対し、枢密院や貴族院にも、反対する人があった。これによって牧野文相が窮地にたたされるはめになった。この時、旧薩摩藩の元老が、牧野文相は将来内閣の首班として立つべき薩摩藩取っておきの人であるから、傷つくようなことがあっては大事であるとしていろいろ苦心し、西園寺首相と話し合いの結果、明治41年5月、臨時仮名遣調査委員会を設置するにいたった。


委員長は菊池大麓男爵。委員は、曾我裕準ら貴族院議員11名、横井時雄ら衆議院議員3名、帝大総長山川健次郎、郵便報知新聞社長矢野文雄、森林太郎(鴎外)、帝大教授井上哲次郎、国語学者藤岡好古、海軍中将伊地知彦次郎、松村茂助、大槻文彦、哲学者三宅勇次郎、それに万年と芳賀矢一の計25名。


この人選を見て、万年はすぐに芳賀を呼んだ。ダメだと思った。二人で目を合わせた。「やられたな」「岡田か―」。岡田すなわち岡田良平は文部省総務長官(のち文部次官)で、教科書疑獄事件のときも陰で動いた。


同41年6月の臨時仮名遣調査委員会の第4回委員会において検討された結果、新仮名遣いの不採用が決まった。これについても保科はおおよそ次のように書いている。

この委員会で、本案について反対意見を述べたのは森林太郎、藤岡好古、伊沢修二、曾我裕準。賛成意見は大槻文彦、芳賀矢一、伊地知彦次郎、矢野文雄。


森(鴎外)の「仮名遣意見」は、延々3時間に及ぶ大演説だった。冒頭「私はご覧の通り委員の中で1人軍服を着して居ります。で此席へは個人として出て居りまするけれども、陸軍省の方の意見も聴取って参った居りますから、或場合には其事を添えて申そうと思います」と言った。陸軍と言えば、当時は山県有朋を指す。山県は、「元老中の元老」と呼ばれ、陸軍参謀総長、内閣総理大臣、枢密院議長を務めた貴族院議員である。


鴎外は、「棒引き仮名遣い」など万年らが主張する発音本意の改正仮名遣いに真っ向反対し、これは国語表記の伝統を乱す、発音通りの表記は無理で混乱を招くなどと、改正の愚を散々に言った。


鴎外を委員会という舞台でうまく躍らせたのも岡田良平だった。しかし、委員会全体の空気は、まだどちらとも決定する段階に達しなかった。


ところがその後、政府、というより文部省、さらにいえば岡田文部次官が、委員会に対する諮問案を撤回し、その年の9月に、新小学校令施行規則第16条第2号表すなわち字音の棒引きかなづかいを削除した。明治34年以来使われてきた新かなづかいを突如廃棄して旧かなづかいに立ち戻ることになったのであるから、教育界に激しい動揺が起きた。


文部省の軽挙に憤慨する声が高く、大槻文彦、芳賀矢一、斯波貞吉、保科らも教育時事大会を開いて文部省問責の熱弁をふるうなどした。しかし後の祭りでどうすることもできなかった。万年は憤慨して、国語調査委員会主事の辞表を出した。


明治38年の文言一致の新仮名遣い改定は、こうして明治41年に頓挫した、というより無法な権力によって葬り去られた。


第16章 唱歌の誕生

唱歌の誕生を取り上げ、言文一致の唱歌、新しい日本語の唱歌、そして歌が日本語を変えていく姿を伊沢修二の吃音矯正法や高野辰之らの活動を通して語る。


第17章 万年のその後

万年の終盤について語る。万年は、不思議なことに師チェンバレンについてあまり語っていない。チェンバレンは昭和10(1935)年、スイスで亡くなった。チェンバレンは収集した本をすべて万年に託して去ったが、大正12(1923)年の関東大震災で焼失した。東京帝国大学の貴重な文献もすべて焼失した。


漱石は、「木曜会」で漱石の文体を引き継ぐ錚々たる小説家やもの書きを育てた。万年もこれまでみてきたように保科孝一ら多くの言語学者、国語学者を育てた。

万年の娘富美子は、円地文子として1960年以降になって評価されることになる。万年が思い描いた「言文一致」は、じつは、この円地文子が活躍した1960年頃になってやっと本当の姿を見せたのではなかったか、と本書は言う。


万年は、昭和12年10月26日死去、70歳だった。万年の日本語は大きく育っていた。昭和21(1946)年、ようやく当用漢字ならびに新仮名遣いの告示がなされた。    (了)


 (山勘 2016年12月20日)
 エッセイ 

どうなる“じゃんけん経済”の行方

ある地方の出身者が集まる年次終会・懇親会に呼ばれて出席した。懇親会の中で賞品当て抽選会になった。和気あいあいと、くじ引き抽選が進行していた途中、手違いでもあったのか、何かの賞品をじゃんけんで決めることになった。途端に、私の横に座って愉快に“メートル”を上げていたその地方の教育委員会の教育長さんが、「じゃんけんは民主主義じゃない」と叫んだ。訳の分からない“異議申し立て”に周りが笑った。


先刻の来賓スピーチでもユニークな語り口で会場の笑いを取っていたその人に、私は「教育長さん、なんでじゃんけんは民主主義でないのですか」と聞いてみた。答えは「じゃんけんは、勝ちたい、負けたくないという気持ちで争うから」というものであった。教育長さんは続いて「動物との共生もできません。人間同士が争っているんですから」と言う。

                                                                      

まさに“なぞなぞ”である。私は「うーん、これは難しい。考えさせてもらいます」と笑っておしまいにした。帰宅してから、面白半分で国語辞典を引いてみた。それによると、民主主義とは「人民が主権を持ち、自分たちのための政治を行う政治原理や政体」だとある。どうも、じゃんけんに結びつかない。


念のため「民主的」も引いてみた。こちらでは、民主的とは「国民の主権を尊び、自由・平等になるように、お互いを尊重するさま」だという。なるほど、これでは「お互いを尊重」せずに、「勝ちたい、負けたくないという気持ちで争う」じゃんけんとは相容れないことになる。たしかに「民主的」ではない。したがって「民主主義」的でもないということになりそうだ。

                                                        

では、じゃんけんと「共生」は関係あるのか。同じ辞書で引いてみた。ところがここでは、「共生・共              棲」と異なる2つの概念を一緒くたに説明している。そして、「共生・共棲」とは、異種の生物が緊密な連携を保ちつつ、互いに利益をうけながら、あるいは一方的に利益をうけるかたちで共同生活をすること」だという。続いての注釈で、前者(互いに利益をうけるかたち)を相利的共生とよび、後者(一方的に利益をうけるかたち)を片利的共生とよぶ、と面倒なことをいう。学者ならぬ一般人から見れば前者こそ「共生」で、後者は「寄生」ではないか。常識的には、「共棲」は文字通り「共に棲む」だけで“片利約”などという意味もないように思われるが、専門家は別の解釈をするらしい。


ともあれその解釈でいけば、理想的なかたちは共に利をうける相利的「共生」であろう。しかし、「共 生」でも、利の受け方、得の仕方は均等にはいかないだろう。また、人間という“種”の中だけでも争いが絶えないのだから、他の“種”の共生は難しいだろう。さらに、片利約「共棲」となると、これはじゃんけんと同じで、どちらか一方が得をするだけだから、まさに「民主的」ではないことになる。そんな連想で、教育長さんの頭の中で「じゃんけん」と「民主主義」と「共生」がひらめいたのかもしれない。


そこで私もひらめいて話は飛ぶが、いま、資本主義社会の行方が大きな問題になってきている。経済学250年の歴史では、モノづくり経済から始まり、貿易経済で伸び、サービス経済、マネー経済、電子空間経済へと“経済フロンティア”を目いっぱい拡大してきた。そして今、ビッグデータを駆使して 瞬時の投資に賭けるじゃんけん勝負のような“じゃんけん経済”が展開される時代になった。世界が震撼したリーマンショックも、直接的には資本の手先となった、たった一人の辣腕トレーダーが、破たんを免れようと“掛け金”をどんどん大きくして大勝負に敗れたのが金融破綻のきっかけだといわれる。


こうして今、資本主義は「他者を尊重する民主主義」を捨て、これまで隠ぺいしてきた「勝ちたい、 負けたくないと争う」資本主義の本性をむき出しにしつつある。一握りの富裕層が富みを独占して“放出”せず、昔のように資本家からの“余慶”にあずかれなくなった中間層が“メルトダウン”して下層化し、貧しきものはますます貧しくなって、貧富の差は拡大するばかりである。


この先どうなる?   “じゃんけん経済”の行方はだれも知らない。


(山勘 2016年12月20日)

要注意!トランプ流「ペテンの技法」 


トランプの話は、正直のところ、読むのも聴くのもウンザリである。前にトランプを批判して「いまや“二枚舌”は政治の常識」を書いた。トランプの次期大統領選勝利が伝えられた直後に書いた感想だが、読み返してみても一言半句も変える必要を感じない。そして今日まで、世のトランプ論評は政治の専門家、ジャーナリスト、市井の意見までかまびすしく、いささか食傷気味になっていた。

と言いながら、もう一度書きたくなったのは、朝日新聞(12月9日)の「クルーグマン コラム」を読んだからである。そこでクルーグマン(米ニューヨーク大教授、ノーベル経済学賞受賞者)は、「トランプ流の技法、見えている失敗のつけ回し」と題して語っている。その内容は“予言”に満ちていて、早晩結果が出る米国政治の展開だけに興味深い。読んだ人も多いだろうが要点を引用する。

重要なポイントはざっとこうだ。トランプは納税記録の公開を拒否した。対立候補だったヒラリーは資金情報を公開して痛い目にあった。したがって、トランプ新政権では、当たり前のように透明性を欠くことが多くなると見る。つまり、新政権は、財政政策や優先事項などの詳細説明さえ拒んだり予算案すら提出せず、口先だけで大きな約束をする可能性が大であると言う。

ここでクルーグマン教授が最も注目するのは、オバマ大統領と民主党が7年前に成立させた医療保険制度改革法、いわゆるオバマケアの行く末である。

ちょっと話はそれるが、実は、オバマケアは、日本の国民皆保険を理想としたものだが、このオバマケアには反対論も多い。例えば、堤未果著「沈みゆく大国アメリカ」では、新制度で保険料や薬の自己負担額は大幅アップ。儲けたのは保険会社と製薬会社ばかり。医者や病院は儲からない医療が増えて財政危機に。病人は医者不足と診療拒否で受診できない、などと“暗部”を指摘する。

しかし、クルーグマン教授は、持病があっても入れるこの保険には大多数の人が賛成しており、それまで無保険だった米国人の新規加入数が大幅に増えていると評価する。そして、これに反対する共和党の出方を注目する。まず共和党は財政支出の削減を志向し、規制緩和を進めるだろうと言う。その規制緩和で、保険会社は加入者を自由に選んでふるいにかけ、何百万人もの米国人が保険を失うだろうと見る。その被害者の大半は大統領選でトランプに投票した人たちだと言う。

そこで浮上するのがトランプと共和党が取る「廃止と遅延」の戦略である。これは、まずオバマケアを廃案に追い込んで、その発効日を2018年の中間選挙の後まで繰り下げようというもの。その間に医療保険の代替案を作ろうということらしいが、これまでの7年間でも作れなかった代替案を簡単に作れるはずがないとクルーグマン教授は見る。作ろうとすれば限りなくオバマケアに似たものになるだろうとも予言する。

たしかなことは、廃止決定から、医療保険市場が大混乱に陥るだろうということである。保険会社は崩壊する市場から撤退する。共和党は責任を民主党に転嫁する。すべてトランプ流だ。で、教授は、トランプの実業家としての回想録を書くとすれば、題名は「ペテンの技法」がふさわしいと言う。それは、だれかに貧乏くじを引かせる方法を巧みに見つけ、他人の失敗した事業から利益をあげる手法をとるからだという。また、自らの失敗を、責任のないだれかに非があると主張して一般市民を納得させることができれば、政治的には成功だ。それは難しいことだが、これまでのトランプのやり方を考えれば、うまくやってのける可能性があると教授は言う。クルーグマン予言の行方を注目したい。 

結論として、ここから学ぶべきことは、トランプ流「ペテンの技法」の恐ろしさだ。すなわち、「不都合な情報開示を避けること」、「不利な真実の説明を拒むこと」、「口先だけの大きな約束をすること」、 「失敗の責任は他党やだれかに負わせること」、「敵の失敗から利益を得ること」などのトランプ的“属性”である。これは、世界的にも今どきの政治家によく見られる“属性”である。日本の政治家をみて も、いまマスコミで“露出度”の高いあの人この人に、その属性が匂うのは要注意だ。

 (山勘 20l6年12月20日)