例会報告
第39回「ノホホンの会」報告

  2014年10月15日(水)午後3時〜午後5時(会場:三鷹SOHOパイロットオフィス会議室、参加者:狸吉、致智望、山勘、高幡童子、恵比寿っさん、ジョンレノ・ホツマ、本屋学問)

 心になる政治改革と構造改革、忘年会の格好のテーマになりそうです。総選挙の結果は果たして……?
老後にいわゆる“認知症”になりやすい職業として、日々変わらぬ仕事をしてあまり考えることをせず“前例主義”で、したがって創造力に乏しい役人、教師、判事、弁護士などが上げられるそうです。

 「蘇活力」「人間らしさ」「能楽」「国語」……。私たちはそうならないために常に感性を磨き、身体、教養力を高めるために邁進しなければなりません。それには、読書や討論のような頭脳への刺激、活性化が最も効果的で、当会の活動の意義もそこにありそうです。

 会でも話に上がりましたが、日本がこれからも“ものづくり”で世界を牽引していくためには、英語力よりも為替操作力よりも、オンリーワンの独創的な技術力を絶えず生み出していくことかもしれません。



(今月の書感)

 「蘇活力 血流をコントロールして弱った身体をよみがえらせる」(恵比寿っさん)/「ケータイを持ったサル『人間らしさ』の崩壊」(ジョンレノ・ホツマ)/「面からたどる能楽百一番」(本屋学問 )/「大英帝国衰亡史」(高幡童子)/「電子立国 日本の自叙伝」(狸吉)/「国語は好きですか」(山勘)

(今月のネットエッセイ)

「剣がなぜ宝(三種の神器)に」(ジョンレノ・ホツマ 2014年10月10日)


(事務局)
 書 感

蘇活力 血流をコントロールして弱った身体をよみがえらせる/南 和友(アチーブメント出版 2013年11月28日 初版発行 本体1,100円)


著者プロフィール

ドイツ・ボッフム大学永代教授、北関東循環器病院院長。1946年大阪生まれ。74年京都府立医科大学卒業。76年ドイツ国費留学生としてデュッセルドルフ大学外科へ入局。

以後30年間にわたり、心臓血管外科医として活躍。84年バードユーンハウゼン心臓・糖尿病センター主席心臓外科医。

89年臨床外科医教授。04年日本人として初めて永代教授に任命される。

05年〜10年にかけて日本大学医学部心臓血管外科教授。10年現職就任。

これまでおよそ2万例の心臓・血管・肺手術を執刀。

著書に「日本の医療危機の真実」「世界のベスト医療をつくる」「こんな医療でいいですか?」「解病 病気から解放される生き方」「病気にならない生き方」 「人は感動するたびに健康になる」がある。


目次

はじめに   

第一章  いつまでも元気でいられる人

第二章  自己治癒力は簡単に高められる

第三章  60歳を超えてからの活力ある生き方

第四章  自律神経を整えれば病気にならない

第五章  血管を硬くさせない健康法

第六章  骨密度を高くする生活習慣

第七章  頭をボケさせない暮らし

第八章  良い医者と病院を選ぶために


120歳まで生きるを目標にしている私は、健康のハウツーものや長生きの秘訣といったテーマがあると必ず飛び付きます。

 それなりに努力してきた(といっても、サラリーマン生活引退後でそれも中心は家内に依存。食事の作用は大きく感謝している)ので、それなりの知識は持ち合わせていると思うのであるが、癖なのかいまだに敏感に反応する。

 本書は発売後直ぐに図書館に予約を入れたが半年以上待たされた。


健康とは、肉体と精神の両方が十分に機能している状態を言うが、患者の大半は悪しき生活習慣が原因で健康を損なっている。いわゆる生活習慣病からいろいろな病気を引き起こしている。医者が決まって同じ指導をするし、誰もが知っている。今の生活習慣を改められないのは、大きく言えば既に心身が病に冒されているからである。著者は「自律神経を整えて血流を上手くコントロールする健康法」に気付き67歳の今も現役で活躍している。このやり方は健康ばかりでなく、人生に充実感までもたらす。と著者はその生き方を本書で紹介している。

ポイントは免疫力を高めるには自律神経の閾値を高めなさいということ。

自律神経の交感神経と副交感神経のバランスの良いことと、その値を高くしなさいと言うことで、これにより人間は病気にならず長生きが出来ると言うもの。このこと自体は既に他著にあったと記憶している。


そのために自律神経を鍛える方法として、著者は

1.生活のリズムを整える

2.食事は腹八分目

3.運動をする

4.五感を使う

5.呼吸を意識する

6.感動する

7.情熱を持つ

8.薬はほどほどに

9.休暇を取る

を挙げていて、一挙に全部をやると言うのは難しいし、相互に関連するので出来るものから取り組めば良いとしています。

 随分当たり前のことしか書かれてないな、というのが正直な感想です。しかし、健康であることそのものが当たり前のことですから、これもまた当然なのかもしれないと思いました。


(恵比寿っさん 2014年10月8日)

 
 

面からたどる能楽百一番/三浦裕子・神田佳明(淡交社 2004年 本体2300円)


世界の有力者が一堂に会する“ダボス会議”に参加した財界人から聞いた話である。パーティで日本人だというと、先方がしきりに「能」のことを聞いてきて、何も答えられずに恥ずかしい思いをした。英語ができるよりも日本文化の素養を備えるほうが大事だと、身に染みて感じたというのである。


 それはともかく、世界無形文化遺産に選ばれた能楽であるが、実は私たち日本人のほとんどは馴染みがなく、したがって知識もない。しかし、曲名の「熊野」は「ゆや」、「弱法師」は「よろぼし」と読むこと、「直面」は「ひためん」といって面を付けない意味で、「面」は「おもて」ということ、舞台では必ず足袋を履くしきたりで、「能楽」は明治になってからできた名称で、それ以前は「猿楽」と呼んでいたことなど、薀蓄好きには堪らない世界ではある。


 本書は、武蔵野大学で能・狂言を中心に日本の伝統芸能を研究する気鋭の研究者と、長く能舞台や能面の写真を撮り続け、数多くの能学書の写真を担当したベテラン写真家による能楽鑑賞入門書であり、「能を知りたければ面(おもて)を知ろう」と袖のコピーにあるように、とくに能面を手がかりに能楽の歴史や演目の詳細について解説している点で、きわめてユニークかつ興味深い書である。


著者は能について “仮面劇であり、歌舞劇であり…”と紹介しているが、すぐに連想するのが同じように仮面を付けて演じたギリシャ悲劇である。両者には2000年という時間の隔たりこそあるが、テーマが深刻な死生観を表現していること、最終的には神によって救済されること、3大悲劇作家といわれるソフォクレス、アイスキュロス、エウリピデスに対して、能の場合は観阿弥・世阿弥父子、金春家や金剛家がいることなど、何か共通するものを感じる。そして、ギリシャ悲劇が後の西洋演劇や歌劇に多大な影響を与えたように、多くの題材を鎌倉時代から取った能のストーリーを発展させて、江戸時代の出版物や歌舞伎になった演目も多い。


能や狂言でなぜ面を使うのかについて、当初は演者が壮年の男性に限られたので、老人や女性を演じる場合は老人面や女面を用いたためで、神仏や天人、仙人、草木の精、鬼神、亡霊、霊獣などの役柄の場合も、それらを象徴する面を用いるのが原則という。その意味ではギリシャ悲劇を始め世界の仮面劇の概念と変わりないはずであるが、能面には独特の風格と雰囲気があり、海外からも熱い視線が注がれている。


美しい女面が出揃うのは桃山時代からというが、この時期から女性の役柄すべてに面を用いるようになったようで、これは演者がすべて壮年の男性という前提で能面の演出が発達したからと著者はいっている。女面だけでも「小面」、「増女」、「若女」、「孫次郎」、「深井」、「近江女」……などがあり、各流派によっても目鼻の細部のつくりが微妙に違うそうで、演者の厳しい要求に応えて面製作者(面打ち)が高度な技量を込めたその表情には、日本独自の造形美と精神性を見ることができるという。


本書によれば、能面や狂言面は「かぶる」といわず「かける」というそうで、それもすべてに“賭ける”という意味に通じるといわれ、能面を霊力の宿る存在とみなす演者と面打ちの絶妙な共同作業が、高い芸術性を伴って独自の発展を遂げたのだろう。室町時代という決して平穏ではなかった時代に生まれ、極端なまでに抑制された感情表現で日本人の死生観を見事に表わした世界に誇る高尚な芸術、能楽はそのように定義されるといってもよいのかもしれない。


今日の能は女性の演者も多いので、能面の役割もこれから変化していくのかもしれないが、約60種類の能面を揃えれば、現在240曲あるといわれる能の演目のほとんどを上演できるそうで、本書には狂言を含めて101番のストーリーと鑑賞のポイント、それに使われる面についての詳細な解説とカラー写真が掲載されている。


秋の夜長、しばし幽玄の世界に思いを馳せて、見事な日本文化の片鱗に触れてみるのもいいかもしれない。


(本屋学問 2014年10月11日)

ケータイを持ったサル「人間らしさ」の崩壊/正高信男(中公新書 2003年発行) 


今まで使っていたケータイのバッテリーチャジャーが故障し、買い替えついでにスマホにしました。使い方に慣れないせいもあり、まともに付き合うと、何かに使われているような気になってきました。


一方、道行く若い人はいつもスマホを手にしており、そんなにまでして見なければならないものなのか、何かスマホに振り回されているのではないかという気になります。


自分自身の分身でもあるかのようにひと時も手放さないで、皆夢中になっているので、外から見ると無駄な時間を費やしているように見えます。


本書が発行された10年以上前はケータイでしたが、今ではスマホに置き換わっています。しかし、ふと根底は同じではと思い、昔の本ですが気になった処だけ読んでみました。


本書の帯表示の裏に、「ひきこもり」など周囲とのコミュニケーションがうまくとれない若者と、「ケ一夕イ」でいつも他人とつながりたがる若者。両者は正反対に見えるが、じつは成熟した大人になることを拒否する点で共通している。これは「子ども中心主義」の家庭で育った結果といえる。現代日本人は「人間らしさ」を捨て、サルに退化してしまったのか? 気鋭のサル学者による、目からウロコの家族・コミュニケーション論。とあります。


著者はサルの研究家であり、10代の若者の行動を見て、異人種の習俗・行動のように思え、珍種のサルを見ているような気になったそうです。

現代日本人は、年を追って人間らしさを捨てサル化しつつある。「人間らしく」とは、生来の資質に加えて、社会文化的になかば涙ぐましい努力を経て「人間らしく」なっていくサルの一種なのである。

今日、社会のなかに「人間らしく」なっていくように仕向ける要因が消滅しようとしていると感想を述べています。


著者がいうサル化とは、端的にそれは、女子高生に代表される10代の風俗に集約的に表れているように映る。例えば、平気で地べたに座ることや、屋外で平然と物を食べる行動。あるいは、靴のかかとを踏みつぶして歩く「べた靴」現象。そして、いっとき隆盛をきわめたルーズソックスである。

これらは、スリッパで室内を歩く意識で外を歩き回りたいという現れであり、公共空間に出ることを拒絶している。そのことの裏返しが、地べた座りや屋外で平気に飲食でき、あるいは電車内で平然と化粧をしたり、ケータイで会話ができることにも気が付いたとあります。


これらは、引きこもりの本質と同じで、家の中が私的空間であり、公共の場へ出ていくことの拒絶でもある。

家の中の範囲がどれだけの広さを持っているか、その縄張りを決定するとそこからは足を踏み出さない。家の外へ出ていくことの拒絶である。


サルと人間の違いは、本来、人間は自己実現を遂げて人生を送る。そのためには、家の外へ足を踏み出すことになるのだが、サルはマザコンで多くの場合、外へ出ることがない。


ケータイ・今のスマホは何処にいても自分だけの時間・場所・空間が得られる絶好の相手となって付き合えるので、サルになりきってしまったということになりますか……。


(2014年10月10日 ジョンレノ・ホツマ)



「大英帝国衰亡史」The History of the Decline and Fail of the British Empire/ 中西輝政(PHP研究所 1997年)


筆者はスタンフォード大学客員研究員等を経て京都大学総合人間学部教授。著書多数


目次

第一章 「パクス・ブリタニカ」の知恵

 人類史における一つの奇跡

 二百年の興隆、二百年の衰退

 バトルオブブリテンの代償

 力による平和と外交による平和 パクスブリタニカの本質とは

 精神的傾向としての勢力均衡

第二章 エリザベスと無敵艦隊

 三つの「山」と二つの「谷」

 「低地」こそイングランドの外堀 模範としてのエリザベス外交

  背信を正義に転化する知恵 無敵艦隊を撃滅したもの


第三章 英国を支えた異端の紳士たち

  なおその堅持性を失わざる物 真の紳士ウイリアム・テンプル

  父子相伝される精神の貴族 ルイ十四世を倒した男

  ナポレオン、ビスマルクを倒した男たち


第四章 英国の殉教者ゴードン

  慕わしくも高貴なるわが英雄 チャイニーズ・ゴードン 1851年ロンドン万国博覧会

  大英帝国の折り返し点 救出されてはならなかった提督


第五章 自由貿易の呪縛

  追いつかれる覇権国 田舎をめざすイギリス人 自由貿易が衰退をもたらすとき

  唯一の選択は開かれたブロック


第六章 ボーア戦争の蹉跌

  帝国を支えた指導階級 ヴィクトリア時代の終わり 世紀末的な帝国主義

  大いなる挫折を予示 帝国主義への幻滅

第七章 アメリカの世紀へ

  イギリスを出し抜いたモンロー宣言 パーマストン首相の恐れ

  アングロサクソニズムという幻想 急ぎすぎた対米譲歩

  過度と逸脱を招いたもの


第八章 改革論の季節

  ゴルデイアスの結び目 改革をめざす三つのリベラル 衰退を招いた理念への固執

  ドイツ熱と日本熱 実行を伴わない議論 財政締め付けへの反動

第九章 悲しみの大戦

  第一次世界大戦の刻印 ガリボリの悲劇 大英帝国のガダルカナル 

   ネルソンを忘れたイギリス海軍 幻滅と亡霊の戦後へ

第十章 ロレンスの反乱

  立て直しの鍵、石油とインド 大いなるクリスマスプレゼント

  帝国の本能を封じるために ロレンスの大いなる幻滅の日々

  眠りから覚めたインド 地域紛争の大波


第十一章 バトル・オブ・ブリテン そしてフルストップへ

  最良のときが最後のとき 大戦がもたらしたふっ切れた気分

  われわれはけっしてし降伏しない 虚像の勝利者 

  選択を誤ったチャーチル アジアをも失った日


第十二章 旗の降りる日

  真実のとき」の到来 ニシンとじゃが芋すらない生活

  最後のインド総督 マウントバッテン

  永遠に降ろされたユニオンジャック


あとがき(抜粋)

大英帝国の衰退の歴史をさかのぼってみると、そこに、愚かさや貪欲、過去のしがらみにとらわれ身動きできない人間の哀れさ、などといった悲劇の光景が、避けようもなく浮かび上がる。しかし今日、帝国滅亡の全過程が終わり、さらに数十年の歳月を経て、大英帝国の全ドラマを振り返ってみたとき、死後、一定の年月を経たあとで、親しい個人を思い起こすときの感覚にも似て、もはや悲哀を超えた、一種の「すがすがしさ」を伴う追憶の念が起こるのは、なぜだろう。  イギリスの植民地からの撤退は、他の欧州列強の場合に比べ「思い切りがよく」ときにはまれに見るスムーズさでもって完了したのはたしかである。しかしそこにいたるまでの、帝国を支えたイギリス人たちの、うめくような苦悩のプロセスがあったことを忘れてはならない。「魂の遍歴」があって「撤退の美学」の演出が可能となりまったくの「負の遺産」とならずに済んだともいいうる。


(高幡童子 2014年10月15日)

国語は好きですか/外山滋比古(大修館書店 2014年6月20日 本体1,400円)


  本書のオビに、『堅実な生活と思想を持つ国民は、文化的なナショナリズムをもつのが当然である。「思考の整理学」の著者が放つ、揮身の国語論』とある。


  内容はエッセイ的で読みやすいが、偏狭なナショナリストならぬ東京文理科大学英文科卒で中学の英語教師として教壇に立ち、若いころは雑誌 「英語青年」の編集にも携わり、現在お茶の水女子大学名誉教授である著者の言だけに重みがある。


  面白いところを“散文的”に紹介する。半世紀前の昭和25年にアメリ力の有力週刊誌 「タイム」が日本文化特集を組んだ。その中で、日本語は 「悪魔の言語」だとして、英語なら第一人称はアイ、第二人称はユーだが、日本語では多くの表現がある。しかもそれら人称を使わずに言ったり書いたりするから日本語は悪魔的だといったらしい。


  これに著者は、‘私’は控え目に姿を見せないのが日本語の床しさだとして、「私が行きます」と出しゃばらず、「まいります」という。だまって行っても悪くない、という。日本語は調和的、平和的である。これに対してヨーロッパ語は、攻撃的ナショナリズムをはらんでいるらしく思われるという。


さらに本書は、日本語のもつ豊かな多くの特性を挙げる。日本文化の伝統に根ざした敬語は、日本のナショナリズムを代表するもので、和をとうとび、相手を尊敬し、自我を抑制し、闘争を回避する点において、世界に誇ってしかるべきものだという。


日本的文化とはすなわち日本語であり,もっとも日本的な日本語の代表は短歌と俳句だともいう。戦後の昭和25年、桑原武雄の 「俳句第二芸術論」が俳句の後進性を衝いた。意気消沈する俳壇の中で大御所の高浜虚子が 「第二でも芸術にしてもらってありがたい」と言ったという。この“大度”はまさに俳句的で日本的で面白い。本書は、俳句は外国に向かって誇ることのできる文化の中の白眉だという。


また、俳句が外国人にとって分かりにくいのは、詩学の違いによるとする。ヨーロッパの詩は線的構造で“線の引き方”でおもしろさを出すが、俳句は点的構造で、点を散りばめて思いを象徴的に表現する。線状表現は解釈が容易だが、点的描写は、点を線化、面化するのに高度の知的作業が要求されるという。

ても、ヨーロッパ語とは大きく性格を異にするが、日本語には日本語の論理があるという。すなわちヨーロッパ語における論理は直線的で、切れ目や曲がりがあってはまずい。それに対して日本語の論理は点的であり、つながっていない、飛躍する。したがって受け手はその点を適当に結びつけて意味、論理をとらえる。その点で日本語論理はソフトで融通がきき、平和的であるという。


そして本書は、小学校5、6年生から英語の教育がなされている現状、さらには3年生から英語教育をはじめようという方向に動き出している現状、しかもそれが英語教育の能力に欠ける小学校教員や中学校の英語教員の派遣によってなされる現状に警鐘をならす。自分の国のことばを放り出して、よその国のことばをかじるのは、人間として、疑問である。まず、しっかり国語の力をつける。そして外国語を学ぶ。それが順序であるとする。


戦争ナショナリズムは人類の敵であるからといって、文化的ナショナリズムを同じように罪悪視するのは誤りである。堅実な生活と思想をもつ国民は、文化的ナショナリズムをもつのは当然である。文化的ナショナリズムは、自らを大切にして豊かにするが、決して他国や他民族を侵したりしないというのが本書の主張である。


(山勘 2014年10月15日)

 エッセイ 

ホツマ・エッセイ 剣がなぜ宝(三種の神器)に


ホツマツタヱの23綾に剣(つるぎ)についての話があります。

人を斬る剣がなぜ宝物なのかという大物主の問いに天照神が答えています。


剣の大元は天の鉾のことを言います。昔(天神初代)は全ての人々が素直で法を守っていたので鉾を使う必要のない平和な世界が続いていました。しかし、天神4代の頃になると、光が陰るように心の中の清らかさも影ってきました。天神6代には、ずる賢い者「とき者」が現れ、他人の物を奪うようになってしまいました。これに対処するため斧でその罪人を斬って治めるようになりました。

斧は木を切る道具だったので、「かねり」(鍛冶人)に鉾(ほこ)を作らせました。


「ほこ」が宝であるという理由は、「と」(瓊)の道(やまと・弥真瓊国の道)に則って、国を治めていても、中には横暴な(邪道・横利く者)正面(正しい方向)を向かず、横に逸れて行く者がいます。一人でも逆らう者が現れると、悪は類を呼び、群れ集まることになります。そして、蟠り(わだかまり)が渦巻くことになります。蟠り(わだかまり)が正しい人の道の妨げになります。逆らう者を召し取り、罪を糺(ただ)し、討ちます。


ほつれた糸や絡んだ糸を取り除かずにそのまま機織りすると、後になってそこからほつれて使い物にならなくなります。最初が肝心です。機織りと政治も同じでことです。国を正しく治める道に対して、逆らう者を取り除かないと国が乱れることになります。

国が乱れれば、田も荒れて瑞穂(稲穂)は発育せず実らず、人々の生活は貧しい状況になるからです。そこで、罪人を斬り(正しい道へ逆らう者を取り除く)、皆一体となって田畑を耕せば、瑞穂(稲穂)が豊かになり、民の生活も豊かになります。


「さかほこ」(逆鉾)は、正面(正しい方向)を向かず、横に逸れて行く者、すなわち、逆らう者を討ち治め、国を正しい方向に向けるので、「たから」(宝)と言います。

次に、天照神は物部(司法を司る)に、死刑への心構えとして、我儘に自分の感情で民を斬ってはいけません。例え、悪を働いたとしても、民は皆、我が孫です。国神は民の両親にあたりますと、言っています。

さらに、臣は自分自身の驕りを表に出さずに堪えて天成道を守りなさい。天成道を守る心がけが自分自身を守る垣になります。 まさに八重垣の剣ということになります。


八重垣の八重は、百・千・万と幾重にも重なった節を備えている垣という意味があります。

八重垣(天孫の代々の垣)は、物部(大物主)の名前と魂の緒で繋がっており、物主は君(天照神)を守るよう誓っています。


一方、天照神は、この剣を練り上げる(鍛造する)「かねり」鍛冶氏に対して左右の眼の活き枯れについて解いています。


左の眼は春の生き生きした気力があり、この生気(左の眼力)でもって、剣を練り上げる(鍛造する)と、生き身に近く(罪なき者・生気の者を斬りたがる)、枯れ身に疎く(罪ある者・罰する者を見抜けなく)なります。

 一方、右の眼は秋の枯れていく気であり、この右の眼力を入れ込んで剣を練り上げて作り上げると、出来上がった剣は、枯れ身に近く(罪ある者・罰する者を見抜き)、生き身に疎く(罪なき者には近づかず)なります。


右の眼だけで鍛造した剣は、枯れ身(罪人)を好み、生き身(善人)を恐れます。よって、右の眼で鍛造した剣が民(青人草)を治める宝物です。


この「かねり」は100日間の物忌みをした後、8本の剣を右眼だけで作り上げ天目一箇(あまめひとつ)の神の名を賜わりました。

この鍛造(たたら製鉄)に携わった人は、真っ赤に熱せられた鉄を、両目を開けて見るわけにいかず、いつも片目で見ているため目がやられてしまったことから、一つ目小僧が妖怪物語に出てくるようになったことが分かります。

八重垣の剣は、後に「かなざき」(住吉の神)と六将神(ふつぬし・たけみかづち・かだまろ・いふきぬし・たちからを・くまのくすひ)と残り一本を天照神が持っていたものを「くしひこ」に賜うことになります。


最後に、「つるぎ」の言葉の説明がありますが難解です。


「つるぎ」とは 「つ」はきのよはひ

(*1)につきて かれるあ(*1)のつぞ  (*1)あ:天を示す特殊文字の「あ」

「る」はしばの かわけばもゆる

るぎのほ(*2)ぞ 「ぎ」はきのかれて     (*2)ほ:炎を示す特殊文字の「ほ」

おもひなし かれに「つるぎ」と

なつくなり


 「つるぎ」(剣)とは、「つ」は木の年齢で、天命に尽きて枯れる天の「つ」(尽きる)です。

 「る」は、柴(雑木)が、枯れて燃える「るぎ」の炎のことです。

「ぎ」は、木が枯れて、寿命が尽きて思い(生への執着)が残っていません。

よって、「つるぎ」(剣)と名付けられました。


(2014年10月10日 ジョンレノ・ホツマ)