2011年6月分
  第2回「ノホホンの会」報告

2011年6月15日午後3時〜午後5時

(会場:三鷹SOHOパイロットオフィス会議室、参加者:六甲颪さん、狸吉さん、致智望さん、山勘さん、恵比寿っさん、ジョンレノ・ホツマさん、本学問屋)

六甲颪さん、恵比寿っさんのご尽力で会議室も確保でき、第2回目は全員が会しての順調なスタートになりました。正式の会名については、先の狸吉さんのご報告のようにインターネットで調査済みでもあり、この会名を使用することでいかがでしょうか。

今後、会場は基本的に三鷹SOHOパイロットオフィスとし、紹介した書籍資料は同オフィスの棚に保管することもできます。保管費は2,000円/月なので、今後は会場費、保管費、茶菓費などを含め、月会費500円程度を集め、プールして補填する案がジョンレノ・ホツマさんからありました。これら詳細については、次回に話し合うことにします。

今回紹介された書感は、「なぜ、『これ』は健康にいいのか?」(恵比寿っさん)、「『親日』台湾の幻想」(六甲颪)、「リブロが本屋であったころ」(本屋学問)、「十字軍物語T」(致智望)、「日本とユダヤ 運命の遺伝子」(ジョンレノ・ホツマ)、「人間機雷」(狸吉)、エッセイは「想定外、プリンタについて」(ジョンレノ・ホツマ)、「母への感謝」(六甲颪)、でした。なお、その後山勘氏からエッセイが送られたため、前回分(「活字文化は死に体か」)と合わせ、今回分も添付しました(「電車内ウォッチング三態」「がんばれ東北人」)。

添付の原稿について誤りや加筆修正がありましたら、ご面倒ながらそれぞれの原稿に赤字訂正をして返信ください。また、書感、エッセイについて、それぞれ皆さんの感想や意見を付して書き込むという案も出ましたが、面白いと思います。それを反映させて最終的にホームページに掲載する予定です。


会後は、近くの「さかなや道場」に繰り出し、美味しい酒肴と焼酎で日本の現状と未来の展望について論じ合いました。たまにはこんな時間もよろしいかと。その後、鈴木さんから横浜での素敵なご提案がありましたが、第1回、第2回と豪勢なアフターファイブが続いたので、楽しみは忘年会あるいは新年会に取っておくということで、しばらくはSOHOでの会合を続けたいと思います。


 次回は、2011年7月21日(木)午後3時〜、三鷹SOHOパイロットオフィスの予定です。

(事務局:本屋学問)

 書 感

日本とユダヤ 運命の遺伝子/久保有政(学研パブリッシング 2011年3月)


著者はサイエンスライター、ユダヤ文化研究家、聖書解説家として活躍されている方です。

最近のDNAの研究により、日本人は中国や朝鮮半島との接

 

触より、イスラエル系チベット族、中央アジア一族と日本人とユダヤ人との間で非常に高い共通性を持っているというのが主な趣旨です。長期にわたり調査されていることに感心しました。

ホツマツタエの記述内容に思い当たる点と、あまりにも出来すぎていて賛成できない点もありましたが、その中で、新しい発見をしました。

読み始めて最初に感動したのは、EUの生みの親が日本人であったということです。

ハインリヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵がオーストリア・ハンガリー帝国の駐日公使として日本に赴任して間もないころ、落馬してしまいます。たまたまそこを通りかかった見ず知らずの青山光子さんという女性に応急手当をしてもらったのがきっかけで結婚され、やがて伯爵夫人としてヨーロッパへ渡ります。

光子さんは31才で7人の子供をもった未亡人になってしまいます。更に、第一次世界大戦が始まり、祖国同士が敵国になってしまいます。しかし、光子さんは敵味方かかわらず苦しむ人のために働き、彼女の存在はヨーロッパで一筋の光になり、晩年に「ヨーロッパ統合の母」と呼ばれるようになります。

本当の平和、本当の共存共栄は、民族を越え、人種差別を越え、敵味方をも越えた彼女の心にあることを知り、後に子供のリヒャルト伯がヨーロッパ統合運動を始めることになったという事を知りました。

もう一つは、割礼についてです。

古代イスラエル宗教では生後8日目に割礼の習慣があり、その日は、友人知人親戚が割礼式のために集まり、子供に命名する日でもあるとのことです。

包茎は不衛生になりやすいという理由だからとのことだそうです。イスラム教徒でも割礼はあるが、生後13才のときに施すとのことだそうです。

さらに、驚いたことに、日本の皇室にも古くから生後8日目に割礼の儀式があると宮内庁の方の証言を載せられていたからです。

本書の割礼の個所を読んだ瞬間、ホツマツタエの中の何のことか分からなかった個所が、この割礼の儀式について言っているのだと直感し、新たな感動を受けました。


(ジョンレノ・ホツマ)

 なぜ、「これ」は健康にいいのか?/小林弘幸(サンマーク出版、本体1,400円)


 著者は順天堂大学医学部教授、日本体育協会公認スポーツドクター。1960年生まれ順天堂大学大学院(博士)修了後、ロンドン大学付属王立小児病院、トリニティ大学医学研究センター、アイルランド国立病院の後、順天堂大学に。20年の研究で、交感神経と副交感神経のバランスの重要性を痛感。自律神経研究の第一人者。アスリートや芸能人のパフォーマンス向上指導にかかわっている。



はじめに

病気の様々な症状の原因が、自律神経のバランスの崩れに起因することが分かってきた。自律神経の働きが健康に大きな影響を及ぼす。また、「交感神経も副交感神経も両方が高いレベルで活動しているとき」が心身のパワーを最大限に発揮できる状態。病気になるときは交感神経レベルが異常に高く、副交感神経が極めて低いときである。バランスを整えるには「ゆっくり」を意識し、ゆっくり呼吸し、ゆっくり動き、ゆっくり生きる。

すべては「これ」で説明できる

今の日本では、多くの人は交感神経の高い状態にある。だから、副交感神経を高い状態に保つことが健康な人生を生きることになり、自分の能力を最大に発揮できる状態になる。そのことを多くの事例を用いて解説している。男より女が長生き、郷ひろみの若さ、季節の変わり目で風邪が多い、ヨガが健康に良い、キム・ヨナの金と浅田真央の銀など。

健康は自律神経のバランスで決まる

生命活動の維持において、自律神経は脳と同じくらい重要。体の恒常性を保つ。心臓、呼吸、体温等。だから「体の危機管理システム」である。交感神経交はアクセル、副交感神経はブレーキ。心身の状態に最も良いのは、両者がともに高くバランスしているときである。交感神経が高まると一般に臓器は活発に働くが、胃腸だけは逆。更年期障害もバランスが悪くなると症状が重くなる。

バランスが崩れると免疫力も低下する。副交感神経の働きを高めれば、高血圧は改善される。糖尿病も同じ。原因は突き詰めれば、バランスの悪い人は十分な酸素を運ぶことが出来ない質の悪い血液になっているから。便秘(腸の動きが悪いタイプ、腸が収縮するタイプともに)への秘密兵器は、乳酸菌を主成分とする整腸剤。体はすべてつながっている。一部だけ問題が生じるということはない。

副交感神経の働きを高める生活習慣

交感神経は「緊張・興奮」、副交感神経は「余裕・安心」。30分の余裕が1日の自律神経を安定化させる。睡眠不足は大敵。高齢者が脱水しやすいのは血管の老化と血液量の減少なので、水分確保が重要。食後の睡魔は副交感神経が高まるため。だから、食事の仕方が大切。ダイエット法もやり方次第。間違ったストレッチ。


人生の質は「これ」で決まる

ラブレターを書くなら朝、口説くなら夜。午後3時以降は頭を使う仕事はX。笑顔が大切。愚痴を言わず、弱音を吐かず、笑顔で努力する。焦ったときほどゆっくり。適度なストレス+適度な余裕がベスト。

車中、NHKラジオの「著者に聞きたい本のツボ」で紹介されていましたので直ぐ書店へ。私は、てんびん座という意識が長年に亘り自分自身へ刷り込まれてきたせいか、バランス感覚に優れていると内心思っています。で、この本を読んで、その根拠が分かりました。


 自分で言うのもおかしいですが、副交感神経を上手く活用しているのだな、と。余程のことがあっても怒り狂うことはしません(興奮のしすぎは負けにつながる、と言い聞かせて冷静を装って対処しています。尤もこれは長年のサラリーマン生活で叩かれてきてそうなっただけで、自慢にはなりません)。


(恵比寿っさん

十字軍物語Ⅰ/塩野七生(新潮社 定価2,500円)


 著者、塩野七生が「ローマ人の物語」15巻を完成させ、その続編に相当する「ローマ亡き後の地中海世界」上下が完成され、更にその続編に相当する「十字軍物語」前編、Ⅰ、Ⅱの3巻が刊行され、一連の大河歴史小説として既に完結されている。

「ローマ人の物語」は、時代を忠実に追った歴史小説で順を追って読むのが原則であるが、その後に刊行された「ローマ亡き後の地中海世界」と「十字軍物語」は、歴史を追ったものではあるが、連続歴史小説の形態ではなく、各巻毎に完結されている。しかし、時代小説としての面白さを体験出来るものであり、ローマから続くキリスト教文化を中心とした、ヨーロッパの歴史を追った小説である。

今般、私の読んだ第Ⅰ巻は前編に続くものであるが、その前編を読む前に第Ⅰ巻を読み終えた。物語は11世紀の前後に渡る事象を対象としており、長くイスラム教徒の支配下にあった聖都イェルサレムの奪還に向けて、1095年カトリック教会が呼びかける「神がそれを望んでおられる」のスローガンのもとに結集した、キリスト教国の7人の領主たちによる第一次十字軍が編成され、イェルサレム奪還が成功するまでの戦いを小説風にしたもので、当時の世界観やイスラムの事情など興味津々の内容で一気に読み終えてしまった。

この7人の領主達は、自分の費用で軍隊を編成し自分が指揮して、他の領主の軍隊と作戦協力してイェルサレム奪還に向かうわけである。イスラムと戦って勝ち取った財宝なり領土は自分達で領有し統治して行くものの、負ければ自分の命も無いわけで、利害のみで起ったものとは到底思えない。既に、衰退傾向にあったビザンチン帝国皇帝もこの十字軍企画の仕掛け人の一人であり、この皇帝の陰謀が十字軍を指揮する領主達への影響や大都市アンティオキアの奪還と、以後の統治に向けての諸問題を解決しなければ、イェルサレムの奪還への道が閉ざされる情況の中での限られた戦力の維持問題、そして当時の海洋国家であり、キリスト教国家であるジェノバやベネチアの援助などを受けつつ、聖都奪還を目指す雄大な大河ドラマである。そして奪還以後の安定統治に至る問題など、息を付かせぬ面白さと中世世界の歴史と文化を知る知識の宝庫であると感じた。何と言っても戦場の指揮系統と安定統治への、云ってみれば国家形成の原点とも言える諸問題の解決は、現代社会に通じる共通の問題でもあると感じさせられ、多くの人に読んで貰いたい書である。

それとは別な問題として、著者は多くを語っていないが、カトリックキリスト教、イスラム教、そしてユダヤ教などの現代に通じる問題の種も伺い知る事が出来るのであるが、この問題をもっと深く切り込んだ書にも出会いたいと思う機会になった。


(致智望)

リブロが本屋であったころ/中村文孝(論創社 本体1,600円 2011年5月)


 イギリスのチャールズ皇太子が来日して国会でスピーチをしたとき、「王様は世界で二番目に古い職業で…」と語りかけたが、日本の国会議員たちには何のことやらさっぱりわからず、ほとんど笑いが起きなかったという。ユーモアのセンスを試された彼らには、少々レベルが高すぎたのかもしれない。

有史以来続く職業はたくさんあるが、今や「構造不況」といわれる出版業も、絵や文字の誕生から人類とほとんど同じ歴史を歩み、実にさまざまな文化を発信してきた。今日、「電子書籍」の登場で大きく変化する出版界の動向は、関係者だけでなく各方面からも強い関心が寄せられている。

著者(といっても編集者とのインタビュー的対談形式)は、池袋の老舗書店、芳林堂を振出しに堤清二氏がつくった西武系の異色書店(後の「リブロ」)の立上げにかかわり、その後ジュンク堂書店でも出版社と書店と読者を結ぶ革新的なシステムをつくり上げ、複雑な出版流通の裏の裏まで知り尽くした、いわば業界の名物出版人の一人である。

大学ではフランス文学を専攻した文学青年が“買うほうから売るほうに回り”(本人談)、何より本が好きだったから売ることにも気持がこもった。その後、正義面(づら)した左翼保守系の組合管理に嫌気が差し、芳林堂を辞めてすぐの偶然の出会いが岩波書店の小林会長と文芸春秋の池島社長というから、著者はよほどこの世界に縁があったのだろう。

セゾン文化の象徴ともいえるリブロでは、品揃えはもちろん照明も内装も書棚のレイアウトも、従来にはない斬新な書店づくりを経験し、出版文化の最先端を走った。ほとんどの出版社の倉庫を回って絶版本を集めたブックフェア、全国の地方出版社に呼びかけて実現させた地方出版物フェア、企業PR雑誌フェア、新刊書店が展開する古本祭…、その意欲とアイデアは、ジュンク堂に舞台を代えても衰えることはなかった。

彼が常にいい続けたことは、書店は出版社や取次の販売代行になってはいけない、読者の立場に居続けることが最低限のモラルだ、本で差をつけてもいいが、出版社で差別するな。配本された本を並べるだけでなく、自分の意志で仕入れ販売することをやれ。

本は大きさもデザインも色も違うから、その集合体を固まりで展開できる展示や並べかたをプレゼンし、読者が書店という装置空間に浸る快感を提供する。そして、一つの棚に一つの本の宇宙を形づくり、一方で多面的な本の内容と性格を反映させる。たとえば、歴史の棚は個別性を解体して日本史、東洋史、西洋史と連環させ、立体的に交差する歴史年表的な棚にするというように。

季節によって棚を動かす、本の位置を変える。すると、本が自ら持つ多面性が出る。それなりに動く本は、どこに置いても売れる。それが本の力というものだ。品揃えだけでなく客の年齢差や男女差まで考えて商品構成しなければ、書店本来の役割は機能しない…。

本が売れなくなった原因はいろいろあるが、それでは多くの書店は今もこうした意識を持ち、実践し、本を売る努力をしているのだろうか、同時に多くの出版社も、読者が本当に手に取りたくなる、書店の棚を飾るにふさわしい本を提供しているのだろうか。「リブロ」は現在も書店である。このタイトルを関係者はどう思っているのか聞いてみたいが、共感する書店人も少なくないのではないか。

著者は最後に、「再販委託制度はすでに制度疲労を起こしている、廃止の方向に進んだほうがいい」と結んでいる。とくに委託制を続けてきたことが本屋を駄目にした最大原因で、書店が自らの意志で本の仕入れと販売をするという当たり前のことを阻害してきたといっているが、同じ出版界の片隅にいる者として同感である。電子書籍の黒船に脅える前に、業界全体がやらなければならないことは山ほどある。

(本屋学問

『親日』台湾の幻想/酒井 亮(扶桑社新書 2010年9月)

2011年3月11日におきた東日本の地震と津波のニュースでいち早く関心を示し、多額の義捐金を送ってくれたのは台湾であったことから、台湾は親日的であるとの印象を深めたが、この本は台湾の親日は本物なのか、これを戦前と戦争中と戦後にわけ分析している。

更に朝鮮の植民地化と台湾の日本への帰属の期間30年から40年で余り差はないのに、韓国と台湾で対日感情は全く違っているのは何故か等を注意深く、日本の戦前右翼と戦後の左翼の発言を紹介している。

著者の意見として台湾は清王朝の時代は殆ど放任状態で強い締め付けはなかったが、日清戦争以後日本の援助があったが真面目できつい締め付けも軍人や警察からなされた。戦後国民党支配下になるとついに不満が爆発して1947年2月28日の大虐殺事件となった。国民党以前の日本による統治の優れた点を経験させられた。他方韓国は中国の配下ではあったが、大韓民国の時代を経ているので基本的に他国支配に批判的であったので反日抗日の傾向が強い。

この本の後半は台湾の親日は根強く、いまや萌日というファンに似たグループもできていると言う。日本人の真面目さ、優しさだけでなく歌曲やアニメも世界で評価されている。本著の内容は幻想でなく真実と言ってもよいのではないか。

                        
(六甲颪

 人間機雷「伏龍」特攻隊/瀬口晴義(講談社 2005年6月 本体1,600円)

 旧日本海軍は何とも凄い兵器を作ったものだ。凄い威力がある(marvelous)兵器ではなく、凄く悲惨な(horrible)兵器という意味だ。
神風特攻隊は広く知られているが、敗戦間近になると予科練を卒業した若者たちが搭乗する飛行機も無くなった。
しかし、太平洋の防衛線は次々と破られ、米軍の本土上陸は目前に迫っている。

 

 追い詰められた司令部は窮余の一策として、翼を失った特攻要員を使って海中から敵の舟艇を爆雷で破壊する「伏龍特攻隊」を立案した。

 これは潜水具を付け、爆雷を装着した竿を持つ特攻兵が、海底を歩いて停泊中の艦船に接近し、船底に爆雷を押し当てて爆発させる攻撃法だ。

 むろん、爆発させた特攻兵は間違いなく死ぬ。人命軽視も甚だしい残酷な兵器なのだ。しかもこれは立案当初から効果に疑問がある攻撃法であり、不慣れな工員が粗末な資材で作った潜水具による、訓練中の事故死が相次いだ。

 
 本書はこの特攻隊の訓練、事故、終戦と戦後などを記した戦史小説であるが、著者は戦後生まれの新聞記者で直接戦争体験は無い。

本書を執筆するきっかけは、癌を患ったことであった。忙しい記者生活から離れた著者はそれを機会に取材を始め、元隊員・関係者 100人以上から取材し執筆した由。

 
 この書感を書いている狸吉は、昔の勤務先の知人がこの特攻隊員だったことを知り、古書ネットを通じて本書を入手した。知人の話によれば「これは司令部が描いた空想で、終戦までに実現した規模はこの十分の一」とのことであった。しかし、本書が刊行されなければ、この話は永久に日の目を見なかったであろう。訓練中に事故死した若者たちにとって、これはまさに鎮魂の書である。乏しい資料を集め本書を世に送り出した著者に感謝したい。

                                                   (狸吉 2011年6月14日)

エッセイ 2011年6月分

想定外


原発の事故に関連して、「想定外」という言葉をよく耳にするようになりました。あり得ないと信じていたことが生じてしまい、事前に心づもりが出来なかった言い訳として、本人にとっての常識外とは言えず、「想定外」であったという言葉が使われたのでしょう。

想定外というには大げさかもしれませんが、最近、私にとっての常識外の出来事がありました。

一つは、長い間動いていた電池式の掛け時計が、地震発生後1カ月位して突然止まりました。電池交換しようと裏を見たら、裏には電池ボックスらしきものは無かったのです。

そういえば、壁に掛けっ放しで、今まで一度も電池交換したことがなかった事に気付き、改めて時計本体の裏に挟んであった埃まみれの保証書を見ると、昭和62年9月の日付になっていました。長寿命と言われるリチウム電池でも8年ぐらいの寿命と思っていたのに、なんと23年8カ月も動き続けていたことにびっくりしました。

最初の想定外でした。

普通の電池時計のつもりで電池交換を頼みに購入先に行きましたが、本体と電池部分が一体の特殊な構造だとかで、今では部品が無くどうしようもできないという返事でした。電池交換できないと知り、唖然としたのが二つ目の想定外でした。

高寿命の使い捨て時計であったことに後になって気がつきました。電池交換できる普通の掛け時計や、昔からの機械式の掛け時計が恨めしく思いました。

一般的に、製造中止から部品は5年間の在庫義務があることは知っていましたが、シチズンも、23年8カ月も動き続ける電池だとは予測して部品を確保していなかったものだったのでしょう。

まさに想定外の寿命も、過ぎたるは及ばざるが如しと思った次第です。

もう一つは、プリンターについてです。モノクロのレーザープリンターのトナーが無くなりかけたので、インターネットでその消耗品であるトナーカートリッジを高いなと思いながらも注文しようとしたときです。偶然にも本体が旧タイプになったためバーゲンしている店があり、新品の本体とその消耗部品がほとんど同じ金額で売られている事を知りました。

どっちを買うのもシャクなので、僅かのプラスαで両面印刷、冊子印刷機能の付いた新製品が発売されていることを知り、この新しい機種に買い替えられ、お陰で満足することができました。

(ジョンレノ・ホツマ)

がんばれ東北人 

 東日本大震災は東北の山野と人々の心に、無残な爪痕を残して去った。あれほど凶暴に荒れ狂い、今も多くの人命を飲み込んだままの海が、表面上はゆったりと収まり返って何食わぬ顔をしている。この海が、あの日あの時、本当に何の意志も悪意も持たずに、天意にも関わりを持たずに襲いかかってきたのか。信じられない思いがする。

 その上、この天災は、原発事故という人災と重なって、日本だけではなく世界に大きな衝撃を与えた。同時に世界の人々は、この大震災の混乱の中で秩序を失わない日本人の行動と姿に驚嘆し、惜しみない賞賛を寄せてくれた。こうした日本人の行動と資質は、世界の中で見れば日本人の持つ特質かもしれないが、日本の中で見れば、多分に気候、風土が育てた東北人の持つ際立った特質でもある。

 作家の曽野綾子氏は「東北の人達は礼儀正しく、苦しさの中でも微笑をたたえていられるのは、雪深い冬を生き、過去に津波や貧しさを体験し、日常で耐えることや譲ることを知っている人たちだからだろう。以前は集団の出稼ぎもあった。苦しみに耐えてきた人たち、耐えることのできる人は美しい」と言っている(4月9日読売新聞)。

 歴史を遡れば「古代東北と王権」(中路正恒著)は、蝦夷と呼ばれた人々が住む地、東北、古代ヤマトの中で封印され続けてきた東北は、長年にわたって大和王朝の攻略をはね退け続けた「森の領域」だといい、地図にない路、洞窟、狼煙などを利用して「多孔質の空間」「多孔質の体質」を作り続けたとしている。いってみれば東北人は長い歴史の中で、体制や権威に“まつろわぬ”体質を持ち、ねばり強い不屈の精神を培ってきたとも言える。

 そうした東北人の資質に反して、今回の大震災と原発事故を通じて見えてきたのは、政治家や原発業界人、学者の非力、不遜、倣岸な姿勢である。政治と科学の非情は東北人の忍耐とは対極に位置する。しかし、そんなことでいいわけはない。

 岩手の生んだ巨人、後藤新平は関東大震災の後、帝都復興院総裁として「単なる復旧ではない。復興である」と宣言して今ある東京の基本設計を行った.日経新聞の「春秋」氏は、後藤は「帝都復興その事は、ただ形式の復興に止まらず、また国民精神の復興を必要とします」と説き、壮大な復興計画から「大風呂敷」とも呼ばれながら、国民に勇気と希望を与えたと賞賛している(3月21日同紙)。現政権は、東北復興のために見習ってもらいたい。

 「東北学」の“開設者”赤坂憲雄氏や、“東北応援団長”山折哲維氏は、今回の原発事故について、なぜ東京が使う電カを東北が作るのか、なぜ本来東京が背負うべき負の遺産を東北が負わされるのかと疑問を呈している。まったく同感だが、しかし東北人はそれを恨まず、むしろ誇りに思って生きたい、と東北人の一人として思う。がんばれ東北人。


(山勘) 

電車内ウォッチング三態 

 
えてして電車内で“人も無げなる”振る舞いをする輩(やから)は若い層に多いが、近頃では中高年者も増えている。これまで私は、そういう場面に遭遇すると、見過ごせずについ口を出して注意することもあったが、いい齢になってからは身の危険を考えてあまり口を出さずに我慢するようになっている。

 これはたった一日、2月10日の車内生態ウォッチング・三態である。時間は前後するが面白くない話から始めると、午前と午後4時台、往復した中央線の車内で、爪楊枝を口にくわえている老人を見た。お二人とも人品骨柄卑しからざる、というのは大げさだが、普通の格好をしたご老体だ。仮にこれが昼飯時だったとしても電車内での爪楊枝は情けない。家の中でさえみっともないだろうに、いつから社会に範を示すべきご老体の“たが”が外れたのか。

 次が午後5時台、新宿を発車した小田急線の電車内で、向かい側の席に座った40代前半とおぼしき女性が、カタログ雑誌のページを、音を立てて破り始めた。何度も破いて要らないらしいページを座席に置き、最後に、必要なページを足下の床に口を開いて置かれたバック、高級そうに見えるバックの中に押し込んだ。

 その間に、腰の横に置かれた残骸のページが2、3枚床に落ちた。これを拾い上げるかと思ったら、座席の下側にがさごそと手で押しつけておしまい。新宿から2つ目か3つ目の駅で立ち上がり、ドアに向かう女性。私の横にいた年配のご婦人の「ァ」という小さな驚きの声と同時に、私が「あんた、そこを片づけて行きなさい」と女性に声を掛けた。

 この女性、恐縮もせず悪びれもせず、引き返してたんたんと紙クズを集めて手に持ち、何事もなかったかのように下車していった。その落ち着きぶりには気味悪いものがあった。

 3つ目はちょっと良い話。午前10時過ぎの新宿駅中央線ホーム。30代の母親と5、6歳の女の子。母娘ともに十人並みの容貌で服装も地味。「吉祥寺に一番早く着く電車はここでいいのでしょうか」と母親に聞かれて「そうですよ」と答えた途端に、母親に手を引かれたその子が「ありがとうございました」と明るい声を上げた。

 来たのはがら空きの電車で、私とその親子はシルバーシートのはす向かいに座った。少したって、母が小さな弁当らしき器を出して、サジで子供に食べさせ自分も食べる。食べ終わったら子供は「こぶとりじいさん」の絵本を開いた。その間、親子の会話はまったくない。やがて母親はシルパーシートのカドに顔を隠すようにムリな姿勢で体をひねって窓側を向き、手早く化粧をなおす。

 電車内での弁当と化粧。いつもの私ならハラを立てるケースだが、遠慮がちな親子の仕草は不快に見えなかった。間もなく私は読書に没頭して二人への観察は中断。電車が吉祥寺に到着。降り際に、私に向かって母親が「ありがとうございました」と挨拶。「いいえ」と答えた途端、「さようなら」と女の子。おしゃまともおしゃべりとも見えなかった女の子の明るい挨拶が心に浸みた。「さようなら」と返事を返したが、もう一言「元気でね」とでも声を掛けてやればよかったと悔やまれて、心に余韻が残った。

(山勘)

母への感謝
 

 私は杉山黌一と美登子の6人目の子供として1924年8月10日に生まれた。

平成の時代カから見れば6人目の子供と言うと子沢山の家族に思われるが、大正末期の時代では6人兄弟姉妹は驚く程の子沢山ではなかった。

私の母親は健気にも多くの子供を抱えながら家事と育児に専心しそれまでに5人の子供を立派に育て上げていた。

しかし6人目の私を妊娠した頃、母は体調に異変を感じ始めていた。阪大病院で診察を受けたところ扁桃腺炎に感染した後腎臓炎を患い、そのためか高血圧になっていたことが分かった。担当のドクターは母体が高血圧なので、出産時の危険を気遣い人工流産を薦めた。現在では種々の降圧剤が開発され余り大きな問題ではなくなっているが、当時は高血圧治療には食事療法以外になかった。

この医者に忠告に対し、私の母は「出産までに食事療法で血圧を下げますので折角の子供を生ませてください」と懇願した。

何日か後、人工流産可能のぎりぎりの頃、ドクターからの問い合わせがあったが、私の母ははっきりと「折角授かった子供です。産ませてください」と再度懇願した。6人目の子供であるのになぜ出産を望んだのか分からないがお産は順調で私を一人の人間として生んでくれた。

この話は私が高校生になった頃ある夕暮れに母から聞いた話であるが、人間の運命の機微を感じさせる瞬間であった。母親は自分の健康も顧みず子供を生んでおきたいという強い決心のお陰でわたしはこの世に現れることが出来た。今頃になって母に対し心から感謝の意を表したい。

私の母は戦前戦中を苦労して生きてきたが69歳になったとき心筋梗塞のため

急逝した。長年の苦労が津も重なったのであろう。晩年はかなりやせてしまった。十分の親孝行ができず申し訳ありませんでした。この手紙を母の墓前に供えてお礼の言葉としたい。


 たわむれに 母を背負いて 其の余りに軽きに泣きて三歩歩まず (啄木)


六甲颪